受難節第1主日礼拝を献げることができました
みなさまの尊いお祈りのお陰で、受難節第1主日礼拝を献げることができました。日毎に春の訪れを感じますが、それでも吹く風の冷たさに身を震わせる時もあり、まだまだ油断は禁物です。
先週の水曜日から教会はキリストの受難を刻むための暦を刻んでまいりますが、教会が生まれたばかりの時代にはクリスマスよりもキリストの受難と十字架での死、葬りと復活のほうが遥かに重要な使信でした。それにもかかわらず、日本ではまだまだ復活のメッセージの共有は難しいところがあります。
その理由には復活の出来事そのものの理解や伝え方にもよるかもしれませんが、復活日、すなわちイースターが太陰暦によりカウントされた結果、太陽暦では移動聖日となり商業化しづらいところがあるでしょう。
しかもこの祝いの日は年度末から年度初めへとまたがる場合が多く、何かと忙しい時期に重なる場合が多いのです。
けれどもこの忙しい時期だからこそ、わたしたちは神さまからキリストの復活という「豪速球」を投げられるのではないでしょうか。
この「いのちの豪速球」は日常のスケジュール調整に気を取られるわたしたちの暮らしのど真ん中に投げ込まれてきます。その勢いを前にしてわたしたちは日々の日常を中断せずにはおれなくなり、「いのちのボール」がどこにあるのか探すほかに道はありません。うろたえる隙も迷いもどこかへと消え去ってしまいます。
ウクライナ戦争やトルコ・シリア大地震の報の一方で、わたしたちの日常に奥深く隠された、いのちに対する軽々な姿勢をただすために神さまはキリストという名の豪速球を投げ込んできます。トピックとしては言葉だけがひとり歩きしがちな世界史的一大事も、本来はわたしたちの小さな日常の延長線上にあります。
泉北ニュータウン教会では受難節には荊の燭台に灯されたろうそくの火を一つずつ消してキリストのあゆみに思いを重ねます。キリストがわたしたちの生きる世の苦しみを担ってくださっているとの確信を堅めながら、神の愛の豪速球の前に立ちたいと願います。みなさまの新しい一週間にキリストがともにおられますように。主にありて。