2025年3月30日日曜日

2025年4月6日(日) 礼拝 予定

       ―受難節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「たがいに支えあうために」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』20章20~29節

讃美=21-57.21-515(Ⅰ 494).
   21-24(Ⅰ 539)


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

受難節第4主日礼拝を献げることができました

おかげさまで受難節第4主日礼拝を献げることができました。奇しくも2024年度を締めくくる聖日礼拝ともなり サクラやタンポポの花咲くなかでの礼拝となりました。いよいよ春の訪れです。
 

本日は『マタイによる福音書』17章1〜13節にある「人の子イエスの山上の変容」の箇所でした。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて高い山へと登ったイエスの顔が太陽のように輝き 服は光のように白くなります。そして『旧約聖書』の物語に登場するモーセ、そして預言者エリヤと語らうという筋立てです。イエスの時代にはすでに物語上の人物となっていたモーセは『律法(トーラー)』、エリヤは『預言者の書(ネビイーム)』を示すとも言われます。いずれにせよイエスの教えは『旧約聖書』の教えや物語が徹底的に裏づけられていました。それではわたしたちがその書物を開いてみるとどのような世界が広がっているというのでしょうか。
 

それは「神なしには」グロテスクだ としか呼べないような展開も含めた人間模様に満ちています。もしもわたしたちが道徳的な規範を人の生きざまだけに求めるならば 誰も該当する人物が見当たらないような世界です。
 
しかしながらイエスはその物語のなかに 隠された神の愛を見いだし自らの苦難を通してその愛を語り 実践しました。人の子イエスの輝きは 人間の醜悪さを映しだしながら その苦しみを分かちあい 我がものとするあゆみでもありました。

この年度の移り変わりにあたって 新年度がそのまま喜ばしく始まるという方々よりも さまざまな戸惑いや迷いにあふれているという方々も多いのではないでしょうか。けれどもわたしたちはその戸惑いがあたかもないかのようなふるまいが「ふさわしい」と捉えがちです。モーセやエリヤは神をうたがう民に蔑ろにされたという記事を忘れるわけにはまいりません。

サクラの樹もタンポポも 何があるのか分からない地面に深く根をおろしてはじめて花を咲かせます。またモクレンの花は散ればこそ豊かに葉を生い茂らせます。
 

イエスの姿の変容は 混乱する世にあって わたしたちが何に根をおろし 誰を見つめて新年度を始めるのかをも示しています。未来への一歩を イエスとともに踏み出しましょう。

2025年3月23日日曜日

2025年3月30日(日) 礼拝 予定

       ―受難節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の愛は苦難を貫いて輝く」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』17章1~13節

讃美=526.515.21-88(Ⅱ255).


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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受難節第3主日礼拝を献げることができました

おかげさまで受難節第3主日礼拝を献げることができました。本日のテキストには、使徒ペトロの人としてのあり方の曖昧さが描かれます。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」との理解を表し イエスに「あなたは幸いだ」と祝福されながらも その直後にキリストの苦難、十字架での殺害とその後の復活を「あってはならない」と諌めたことで「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と戒められてしまいます。
 

ごく短い物語でのペトロの扱いからは 人の姿に理想の姿を追いかけてしまううわべの「信仰」の大きな問題が示されています。すなわち個人の内面の問題の枠を出ずに論じられた信仰はかくまでもろい という事実です。
 

『聖書』が信仰と呼ぶのは神からの祝福に根ざした「関係」であり それはイエス・キリストとの間柄でも同様です。相手から恵みとして先に授かるのが信仰であり それはこちらの都合を問いません。ペトロはその意味では勘違いをしています。だからこそ「鶏の鳴く前に三度イエスを否定する」という挫折と涙を通してようやくキリストの教えと生涯が示す事実を悟ります。その事実とはわたしたちが「赦された罪人」としてキリストに従うというあゆみでした。
  

今年の春分の日は3月20日でしたが奇しくもこの日は三十年前にあるカルト教団が未曾有のテロ計画を決行した日でもありました。ただ注目したいのはこの事件にいたるまでマスコミがこの教団の教祖をバラエティー番組に登場させたり「知識人」も対談を望んでいたりしたとの過ちが忘れ去られているありさまです。カルト教団に属する若者は正義を掲げてテロを行いました。他方でその被害を受けて亡くなったり障がいを引きずっている方々の時は停止したままです。
 

今 社会の歪んだ正義感は SNSでの匿名の煽動的な攻撃へと移りました。誹謗中傷を受けた人々の中には自死に追い込まれる方々さえおられます。感情的な一時の高ぶりが取り返しのつかない過ちにつながるとの警鐘は すでに使徒ペトロの過ちに示されてはいないでしょうか。
 

他者への否定ではなく 自らを苦しめる者にも神の愛を貫いたイエス・キリストこそ わたしたちが仰ぐべき救い主です。その愛に基づいて日々のあり方を問い直してまいりましょう。みなさまの新しい一週間に主なる神のますますの祝福を祈ります。

2025年3月16日日曜日

2025年3月23日(日) 礼拝 予定

      ―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  



説教=「涙と挫折こそ信仰の目覚め」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』16章13~23節

讃美=243.21-441(268).
21-88(Ⅱ255).


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
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礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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受難節第2主日礼拝を献げることができました

おかげさまで受難節第2主日礼拝を献げることができました。礼拝中継の画像は一部乱れがあるとは言え、教会員のご指導により中継動画の放送も再開できました。ご協力ありがとうございました。
 

本日の『聖書』の箇所は「見えず 聞こえず 話せず」の三重苦を抱えた人が人の子イエスに癒やされ交わりを回復したものの、その癒しのわざが悪霊の頭ベルゼブルによるものだと指摘するその時代のユダヤ教の律法学者の横槍に対する抗弁に耳を傾けました。イエスは指摘に論争をもって向き合わず「神の国の訪れ」を律法学者にも告げ知らせました。否定に対する否定ではなく「あなたたちも神の愛の力につつまれている」との力強い宣言を聞いた思いでした。
 

昨日は教会とあゆみをともにする 「こひつじこども園」の卒園式でした。28名の園児さんが節目を迎えました。幼い日の思い出はいつしか長期的な記憶となり園児さんが22世紀をあゆむようになってもこころに刻まれているでしょう。
 

世界的な乱世や飢饉の噂の絶えない昨今ですが そのなかにあるからこそ教会の交わりは豊かに祝福されると確信しています。真夜中に灯された灯火としての役割を委託されているからこそ 否定に対する否定という不毛な悪循環ではなく 苦しみを担いながら世の悲しみを喜びに変えたキリストの十字架と復活を仰ぎたいと願います。
 

70年間草木も生えないと言われた灼熱の土地に芽生えた麦の芽をわたしたちは知っています。本日の箇所で文章そのものが受動態で記されているがゆえにその存在感の薄い、三重苦のただなかにいる人をイエスのもとに連れてきた無名の人のように わたしたちも愛のわざに励みましょう。みなさまの新しい一週間に主なる神のますますの祝福と支えを祈ります。

2025年3月9日日曜日

2025年3月16日(日) 礼拝 予定

       ―受難節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「世の分断を乗り越えるキリストの愛」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12章22~32節

讃美=Ⅱ-80.21-530(516).
21-88(Ⅱ255). 


説教要旨・動画、ライブ中継については、
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礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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