2026年1月18日日曜日

2026年1月25日(日) 礼拝 予定

   ―降誕節第5主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「神の救いの兆し」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章21~28 節
(新約62頁)

讃美=  21-530(316).21-463(494).21-24.


当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

 

降誕節第4主日礼拝を献げることができました

おかげさまで 本日は降誕節第4主日礼拝を献げることができました。『聖書』の箇所は『マルコによる福音書』1章14〜20節。人の子イエスがガリラヤ湖のほとりで最初の弟子を招いたところを軸としてお話ししました。
 

人の子イエスが初めて弟子としたのは漁師を生業とする者でした。厳しい自然を前にして生き抜くほかない漁師は徹頭徹尾「生活者」以外の生き方を知りません。けれどもこの漁師たちが弟子となることで教会が本来なら歴史の波に忘れ去られていく人々にイエスがキリストであると伝え その交わりを広げてまいりました。

もちろんその歩みは順風満帆というわけではありません。罪を犯し 主なる神の愛に幾たびも叩かれての今日があります。名もない生活者の群を礎とすることで 神の愛をもっとも必要とする人が集う場となりました。

本日は阪神・淡路大震災から31年を迎えての礼拝としても献げられました。31年という歳月にあっても決して癒されない悲しみがあります。その涙を忘れずに主なる神の深い癒しと慰めを祈ります。

高校生には大学受験で精一杯の方々もおられることでしょうし、大学受験に限らず日々自らの進路を問うておられる方々も多いことでしょう。

ただ そのような思い煩いに呑まれてしまうのも考えもの。「明日のことを思い煩うな。明日は明日自らが思い煩う」とイエス・キリストは朗らかに語っておられます。その温かさをともにしつつ新しい一週間を歩みたく存じます。

2026年1月11日日曜日

2026年1月18日(日) 礼拝 予定

  ―降誕節第4主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「湖のほとりで」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章14~20節
(新約61頁)

讃美=  21-504(285).21-518(361).21-24.


当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

 

降誕節第3主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第3主日礼拝を献げることができました。

寒風の中ではありましたが 教会員始め関係者が主なる神の支えてくださることもまた何よりの喜びです。
 

本日は二十歳の祝福式礼拝でした。泉北ニュータウン教会では今年は1名の教会員を祝福できました。感謝と献身の祈りでは併設事業体である こひつじこども園を卒園された方々も覚えて祈りが献げられよき礼拝となりました。

聖日礼拝の報告では当教会とゆかりあるウクライナからの避難民のご家族を覚えてのメッセージがあり 平和への祈りを改めて堅くいたしました。

概ね今週から全国では冷え込みが厳しくなります。とくに雪かきが必要となる地域の教会ではその折での事故も案じられます。

身体の調子を崩している教会員・関係者のみならず新しい一週間の こひつじこども園・放課後等デイサービスこひつじの働きが整えられ用いるご家族・保護者の方々に主なる神の祝福が豊かに臨みますよう祈ります。

ナザレのイエスがバプテスマのヨハネから水による洗礼を授かり時にかなった神の愛の証しを自らの生涯を通してお示しくださったように わたしたちの一週間もまた神の子の謙遜の姿にしたがい定められますように祈ります。

みなさまに主なる神の愛がますます豊かに備えられますように。

2026年1月4日日曜日

2026年1月11日(日) 礼拝 予定

 ―降誕節第3主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
説教=「天が裂けるとき」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章9~11節
(新約61頁)

讃美=  21-529(333).461.21-24.


当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

 

降誕節第2主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第2主日礼拝を献げることができました。2026年を迎えて初めての聖日礼拝。聖書箇所は『ルカによる福音書』2章41〜52節の少年イエスの物語。12歳を迎えた少年イエスが両親が毎年行っていた過越の祭行脚から離れ エルサレムの神殿で律法学者たちと問答を繰り広げるという話。母マリアと父ヨセフはいつのまにか帰路から離れたイエスを探し求めて混乱し 三日目に見つけた少年イエスに「なぜこんなことをしてくれたのか」と叱りつけますが 少年イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えます。この言葉に「両親はイエスの言葉の意味が分からなかった」と福音書の書き手は記します。
 

この箇所で明らかなのは人の子イエスの言葉は両親にも理解できなかった、というところです。ローマ・カトリック教会や東方オーソドックス教会で権威づけられた「聖家族」のイメージよりも、むしろ次世代の言動を前に戸惑う両親の姿がありありと目に浮かびます。
 

わたしたちには見当もつかない世界を 次世代の若者たちは軽々と乗り越えていきますが そのような若者たちをわたしたちは「わたしたちの若いころは」とおのれの経験則で束縛し 神から託された自由な言動を縛りあげがちです。しかし人の子イエスは 神の言葉のもつ自由をその少年の時代から体感していました。なぜならばイエス自らが神の言葉として世に遣わされた救い主だったからです。

時にイエス・キリストはメシアとして崇められ また時にイエス・キリストは「気が変になっている」と噂で貶められました。しかし他の福音書であればともかく『ルカによる福音書』では両親が徹底して息子を信頼していた様子を描いています。
 

こどもが両親の理解を超えた言動をとるときに親に求められるのは徹底してわが子を信頼するという態度です。ただそれは神への信頼なしには困難な道です。

わが子が親の想定した路線から外れたときにこそ わたしたちにはこどもへの不平不信ではなくイエス・キリストに根ざした深い信頼がぜひとも求められます。この態度は教会員・牧師家族を問わず求められるあり方です。

2026年を迎えて初めての聖日礼拝は 何よりも次世代が神に示された道をあゆむためにも欠かせませんでした。短期的な視野での願かけのようではなく 人生を全うしたときに「これでよかったのだ」と喜びに満ちあふれる生き方を次世代が辿れるように祈りを重ねたいと願います。

聖日礼拝の後には「教会の活動を考える会・伝道委員会」を行い 次年度の課題を含めて話し合いました。

パレスチナ、ベネズエラ、ウクライナ、インドシナで戦争に苦しめられている障がい児・者やこどもたち、ご高齢の方々を覚えて祈りを献げました。みなさまの新しい一週間・一年間に主なる神のますますの祝福がありますよう祈ります。

2026年1月1日木曜日

元旦礼拝を献げることができました

おかげさまで泉北ニュータウン教会では2026年の元旦礼拝を献げることができました。
 

東アジア圏内での「お正月」にもまさってお祝いされるのがユダヤ教での「過越の祭」です。古代エジプト文明で奴隷として扱われていたヘブライ人が 奴隷解放の神に解放されて 二世代をかけて「乳と蜜あふれる約束の地」カナン地方を目指して旅を始めます。なおこの箇所をして国民国家としてのイスラエルを正当化する向きもありますがあくまでもその動きは一部でしかありません。
  

むしろイエス・キリストはユダヤ人であり 弟子や使徒パウロもユダヤ人であったばかりか この祭を尊んでいた様子を思い浮かべますと ローマ帝国の支配華やかなりし時代にも連綿と続いた解放の喜びの響きが伝わるようです。

しかしわたしたちが「解放は喜びである」との話を聞いても今ひとつピンとこないのではないでしょうか。わたしたちは「解放」よりも「帰属」に安らぎを覚えますし「自由」よりも「安定」に安心するからです。

しかしそのような共同体が直面する課題とは「多様性」や「他者」「異文化」への向き合い方です。日本文化では否定的に理解されがちな「逃げる」というあり方も野生動物ばかりかアブラハムの神に素直に従う人々には いのちを尊ぶという意味で尊重されるべき態度として奨励されます。

思えばアブラハムの神が慈しみ イエス・キリストが大切にしたのは難民(寄留者)ややもめ そして孤児でした。法に背いてまでも初代教会の人々がこのような人々とともに歩んだのは申すまでもありません。

新しい年が始まりました。行手に何が待ち受けているのか定かではありません。しかし年始の喜びがすでに歳末の安らぎを先どりしていると受けとめながら この一年を主なる神に委ね種々の束縛や偏見から解放されて泉北ニュータウン教会はあゆみたく存じます。みなさまのお祈りをお願い申しあげます。