おかげさまで受難節第3主日礼拝を献げることができました。桃の節句の朝 気温の変化は激しいながらも春の陽を浴びての礼拝となりました。
今朝の『聖書』を読み解く上で異彩を放つのは『ヨハネによる福音書』でイエスが一二弟子の一人を「悪魔」だと宣言するところ。福音書の書き手集団は、悪魔扱いされた弟子をイスカリオテのユダであると書き記します。
ただし細かくこのユダの姿を掘り下げてみますと、ステレオタイプのユダのイメージが浅薄であると気付かされます。人の子イエスの身に危機が迫るに従って弟子の多くは逃げてしまいます。これはペトロも同じなのですが、イスカリオテのユダは、人の子イエスの無罪と裁判の不当性を訴えます。ユダの生涯が自死という仕方で終わったとしても、『聖書』にその死に方を咎め立てた箇所はありません。『聖書』は生き方を問うのであり、自死を罪あるものと定めたのはむしろ遙かのちに世俗権力と結託した教会が作り出した教理に過ぎません。
「裏切り」と訳されるギリシア語「パラドゥーナイ」は本当のところ「引渡す、委ねる」に意味が近いと考えられます。ユダは祭司長たちにイエスを引渡し、祭司長たちはローマ帝国の総督ピラトに、そしてピラトは十字架にイエスを引渡すにいたります。その意味では瑣末ながら最初にイエスを引渡したユダに決定的な責任がありますが、福音書の書き手はその責任を「一二人の弟子」を代表する責任として描くのです。
イスカリオテのユダが神に救われたかどうかについてはわたしたちは神の国の訪れを前にして沈黙しなくてはなりません。しかしこの沈黙の中で祈りが生まれます。イスカリオテのユダもまた神の救いの計画の中に織り込まれていたのです。
わたしたちは各々勝手なラベリングでもって『聖書』のことばを縛ろうとしますが、そのような頑ななわたしたちをイエス・キリストは自らに課せられた十字架刑と死、そして埋葬と復活によって打ち砕かれます。わたしたちもまたさまざまな破れと不確かさを抱えていますが、主なる神の愛はわたしたちの過ちによって破られはしません。イスカリオテのユダのような弱さを抱えながらも、わたしたちは主なる神に備えられた神の道をイエス・キリストとともに旅しているのです。みなさまの一週間を主なる神の愛がつつんでくださりますよう願って止みません。