泉北ニュータウン教会では棕櫚の主日礼拝を献げ、受難週の訪れを胸に刻みました。
キリストの十字架での叫び「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とは、絶望な苦しみを示すだけでなく、概して世から排除され、隠蔽されていく叫びでもありました。その叫びを人の子イエスの生涯のクライマックスとし、欠くべからざる出来事として描ききった物語の意図を考えずにはおれません。
今の世にあっても苦しむ者の叫びは誰からも顧みられず忘れ去られていきます。けれども福音書に触れる者はそのような態度を許されません。目をつぶり耳をふさぎ逃れようとしても、十字架のイエス・キリストの出来事は決してわたしたちを離さないのです。
年度末・新年度の準備期間には、わたしたちはさまざまな悩み苦しみに苛まれます。貧困は今やアフリカや南米だけにではなく、わたしたちのごくごく身近なところにあります。キリストの苦難と十字架での死にわたしたちは何を重ねていくのでしょうか。
復活のよろこびにつながるその苦しみは、わたしたちの痛みを覆ってやまない苦しみを恐れない神の愛。その愛に押し出されて、新しい1週間を始めましょう。