おかげさまで聖霊降臨節第15主日礼拝を献げることができました。
なにゆえ神はこの苦しみを名もなき人に与えてはいのちを奪うのか?
このような問いは『新約聖書』の舞台にも重く響いています。
本日礼拝での聖書では、主イエスが天の国(世のすべてにおよぶ神の愛による統治を示す。死後の世界の話ではない)を地に埋もれた宝や一粒の真珠に重ねて描いていました。
アコヤガイは身体に入った異物を貝殻と同じ成分でつつみ身を守ります。その結晶が真珠となりますが、これは手入れもきわめて難しい宝石です。それに貝そのものは真珠を採り出されたら死んでしまいます。
畑の中にある宝も、どこに埋もれているのか分からなければ、探し手は汗水流していつまでも探さなくてはなりません。
しかし真珠は小さくても貝の高貴ないのちそのものの輝きを放ち、どれほど広大な土地であっても宝は必ず備えられています。
小さな真珠をはぐくむ主なる神が、わたしたちのいのちを脅やかすはずがありません。むしろ問われるべきは、いのちを軽んじながら繁栄を謳歌し求めてきた社会やわたしたち各々のありかたです。
イエス・キリストはそのようなわたしたちを排除せず、天然の真珠を手入れするかのように、そして泥まみれになってわたしたちの宝を探し出してくださります。神はわたしたちを苦しめる神ではなく、死の闇から救おうとされる神であることが、キリストのわざに示されます。
不安や恐怖の中で判断の基準が歪みがちになる日々かもしれませんが、今こそイエス・キリストの教えとわざに耳を傾けて従うときです。今・この時、いのちを支え、助けようと粉骨砕身される方々を胸に刻みながら、身近なところでお働きの兄弟姉妹のために祈りましょう。
みなさまの新しい一週間を主なる神が力強く支え、恵みと平安で満たしてくださりますように。
主にありて