お陰さまで待降節第3主日礼拝をお献げできました。アドベントクランツには第三のろうそくが灯され、天の御使いの声に促されて嬰児イエス・キリストのもとへ進む羊飼いに思いを馳せました。コロナ禍は小康状態になっているようですが、クリスマスが年末と月末の繁忙期にエアポケットのような祝祭気分として世に受けとめられ、却って気を引き締めなくてはと背筋を正す候です。
ところで灯されたろうそくの灯りを消すとき、みなさんはどのようにされますか。金属製のカップを被せたり、息で吹き消したりとさまざまでしょう。
牧師はろうそくの芯をつまんで灯を消しています。決して真似すべきではありませんが、ろうそくの灯は芯の下からつまむとそれほど熱さを感じず、火傷もせずに消すことができます。
もちろん気持ちを一定の間集中させなくては大事にいたります。よく灯りを見つめてタイミングをはかる必要があります。
この片付けの作業を通して考えるのは、いのちの灯には畏怖が伴うところです。いのちへの畏怖のない喧騒の中で多くの人が孤独やひもじさの中に佇んでいます。絶望の中いのちへの畏怖を忘れて他人や自分のいのちを軽んじる事件が後を絶ちません。触れてはいけない瞬間をはらむがゆえの尊さ。キリストの誕生物語には「処女懐胎」として表現されてきたいのちへの畏怖があります。その畏怖の念を大切にしながら、クリスマスの聖日にむけてあゆみたく存じます。
みなさまにクリスマスの主がともにおられ、神さまの恵みが新しい1週間にもともにありますよう祈ります。