本日の聖書の箇所は『ルカによる福音書』9章10〜17節に描かれた「5000人の共食(きょうしょく。食をともにすること)」の箇所。男性だけで5000人とありますから、字義通りに受け入れれば1万人を超える人々が名もない「群集」として主イエスの招きに応じました。
貧しさのどん底にいたであろうこの人々が暴れもせず暴動も起こさなかったのはイエス・キリストに招かれた、という存在の肯定の中で神より落ち着きを賜わったからだとの理解も可能です。この落ち着きの中、五十人くらいずつの群れに分けられて座り、赤の他人であった人々は交わりを授かります。日も傾くなか、弟子たちが盛んに解散させようとしたのとは対照的に、イエス・キリストが当時の粗末な携行食であった「五つのパンと二匹の魚」を神に感謝しながら分けます。弟子たちがその食事を配る中で、人々もまたイエス・キリストに倣って互いに持参した粗末な食事を分けあったことが考えられます。それは群衆を前に怯み、お金での解決をほのめかした弟子たちをも驚きの中で満たす出来事でもありました。
わたしたちは分かちあえるのは「豊かさ」ばかりであると思い込んでいますが、イエスの行なった奇跡とは、「貧しさ」もまた分かちあえるものだとお示しになったことではないでしょうか。何も持たないはずの人々が、互いに奪いあうのではなく分かちあったことそのものが奇跡だというのは読み込みすぎでしょうか。
暮らしの危機的な状況の中で育まれた交わりや絆ほど強固なものはありません。わたしたちが「主にある交わり」を考えるとき、経済的な豊かさばかりを前提にしている破れを負っているのに気づかされます。それは授けられていたはずの「神の愛の力」の放棄なのかもしれません。大切なのは「献げる」わざであり「捨てる」わざではないのです。
紅白の梅の花の蜜をメジロが吸いにきます。メジロはお金があるから蜜を吸えるのではありません。わたしたちは「お金があること」と「食を授かること」を混同しています。コロナ禍をひきずりながら、貧困のなかに生きるほかない今だからこそ、教会のわざはわたしたちにも、また地域社会にも希望の光を灯しています。
春の訪れのなか、互いに支えあいながら新しい一週間を始めましょう。とりわけこの週に天に召された大切な教会関係者もまた、キリストとともにいると確信しながらあゆみたく存じます。