おかげさまで受難節第5主日礼拝を執り行うことができました。昨日には こひつじこども園の卒園式を挙行し30名の卒園生が巣立っていきました。泉北ニュータウン教会とは「車の両輪」として位置つけられたこども園の卒園式にむけて職員は祈りのなか思いと力を尽くして励みました。おつかれが存分に癒されますようにと祈ります。
また本日礼拝後には臨時総会が開会され次年度の役員3名が選出されました。ポストコロナのなかで「無痛社会」への求めが多くなる時代において「キリストの苦難と死、そして復活」の出来事に立つ教会のあゆみが問われます。キリストを頭と仰ぐ教会にふさわしいわざに励むことができますようお祈りください。
次回日曜日からは受難週が始まります。キリストの復活に示されるようにいのちの輝きが死にとどまらないとのメッセージを、現代だからこそみなさまとともにしていきたく存じます。純白のハンカチを結んだようなハクモクレンの花に、いのちの清らかさを重ねつつともにあゆみましょう。みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますように祈ります。
2024年3月17日日曜日
2024年3月10日日曜日
2024年3月17日(日) 礼拝 予定
ー受難節第5主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「一粒の麦が地に落ちるとき」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』12章20~26節
(新約聖書 192頁).
讃美= 243,21-466,21-27.
説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。
受難節第4主日礼拝を献げることができました
おかげさまで受難節第4主日礼拝を献げることができました。啓蟄を過ぎた候の朝 若いウグイスのたどたどしい歌声を聞きながらの礼拝となりました。
本日は2時間で10万人が実に残虐かつ不本意な仕方で天に召された、民間人の大虐殺とも言うべき東京大空襲から79年、そして明日の東日本大震災13年を覚えて、日毎の祈りに加えてさらに言葉を刻みました。
東京大空襲の作戦を立案・指揮したカーチス・ルメイという軍人はB29から機銃を取り外し、積めるだけの焼夷弾を東京の下町に降らせるという恐るべき「効率的」な軍人でしたが、戦後日本政府から最高位の勲章を受位されてもいます。ナチスのアイヒマンにしても米軍のルメイにしても人間の持つ残虐性を効率化し得た人でしたが、片やエルサレムの裁判で処刑され、片や東京で叙勲されました。
『ヨハネによる福音書』の「ナルドの香油」の箇所はそのような人間の残虐さもまた善意の名のもとに行われうること、そしてイエス・キリストの前では、譬え無駄であるとされたとしてもすべてが祝福されるという「効率化」とは正反対の極みに立つというメッセージをも放っています。マリアがイエスにそそいだナルドの香油の香りは、確かに目利きのイスカリオテのユダにはとてつもない無駄に思えたことでしょう。しかしイエスはその香りにつつまれながら「わたしの葬りの日のためにそれをとっておいてくれた」と語ります。本来ならば十字架刑に処せられた死刑囚はそのまま放置されて鳥獣の貪るところとなりますが、ナルドの香油はイエス・キリストの生涯が死に留まらないと示していたのです。
本来ならどこか不完全さを抱えている人間の考える「効率性」や「完全性」はどこかに破れを抱えています。その破れは「想定外」との言葉では決して正当化されません。この厳粛な事実を忘れたときに、人はあらゆる罪悪を「神なき善意」のもと実に効率的にやってのけてしまいます。
教会は新年度の備えにあたり、人間の「非効率性」「無駄なところ」こそイエス・キリストに祝福されているとの前提に立ちながら、新たなあゆみを興していきたいと強く願うものです。コロナ禍を経て弱くもされた教会の交わりに、神の備え給う奇跡の麦の種が一粒隠されているとしたら、わたしたちはいかに受けとめるべきでしょうか。いのちとはわたしたちの両手からこぼれて余りあるほどの恵みに満ちあふれています。みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますよう祈ります。
本日は2時間で10万人が実に残虐かつ不本意な仕方で天に召された、民間人の大虐殺とも言うべき東京大空襲から79年、そして明日の東日本大震災13年を覚えて、日毎の祈りに加えてさらに言葉を刻みました。
東京大空襲の作戦を立案・指揮したカーチス・ルメイという軍人はB29から機銃を取り外し、積めるだけの焼夷弾を東京の下町に降らせるという恐るべき「効率的」な軍人でしたが、戦後日本政府から最高位の勲章を受位されてもいます。ナチスのアイヒマンにしても米軍のルメイにしても人間の持つ残虐性を効率化し得た人でしたが、片やエルサレムの裁判で処刑され、片や東京で叙勲されました。
『ヨハネによる福音書』の「ナルドの香油」の箇所はそのような人間の残虐さもまた善意の名のもとに行われうること、そしてイエス・キリストの前では、譬え無駄であるとされたとしてもすべてが祝福されるという「効率化」とは正反対の極みに立つというメッセージをも放っています。マリアがイエスにそそいだナルドの香油の香りは、確かに目利きのイスカリオテのユダにはとてつもない無駄に思えたことでしょう。しかしイエスはその香りにつつまれながら「わたしの葬りの日のためにそれをとっておいてくれた」と語ります。本来ならば十字架刑に処せられた死刑囚はそのまま放置されて鳥獣の貪るところとなりますが、ナルドの香油はイエス・キリストの生涯が死に留まらないと示していたのです。
本来ならどこか不完全さを抱えている人間の考える「効率性」や「完全性」はどこかに破れを抱えています。その破れは「想定外」との言葉では決して正当化されません。この厳粛な事実を忘れたときに、人はあらゆる罪悪を「神なき善意」のもと実に効率的にやってのけてしまいます。
教会は新年度の備えにあたり、人間の「非効率性」「無駄なところ」こそイエス・キリストに祝福されているとの前提に立ちながら、新たなあゆみを興していきたいと強く願うものです。コロナ禍を経て弱くもされた教会の交わりに、神の備え給う奇跡の麦の種が一粒隠されているとしたら、わたしたちはいかに受けとめるべきでしょうか。いのちとはわたしたちの両手からこぼれて余りあるほどの恵みに満ちあふれています。みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますよう祈ります。
2024年3月3日日曜日
2024年3月10日(日) 礼拝 予定
ー受難節第4主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「非効率の中に潜むいのちの希望の光」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』12章1~8節
(新約聖書 191頁).
讃美= 511,21-309,21-27.
説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。
受難節第3主日礼拝を献げることができました
おかげさまで受難節第3主日礼拝を献げることができました。桃の節句の朝 気温の変化は激しいながらも春の陽を浴びての礼拝となりました。
今朝の『聖書』を読み解く上で異彩を放つのは『ヨハネによる福音書』でイエスが一二弟子の一人を「悪魔」だと宣言するところ。福音書の書き手集団は、悪魔扱いされた弟子をイスカリオテのユダであると書き記します。
ただし細かくこのユダの姿を掘り下げてみますと、ステレオタイプのユダのイメージが浅薄であると気付かされます。人の子イエスの身に危機が迫るに従って弟子の多くは逃げてしまいます。これはペトロも同じなのですが、イスカリオテのユダは、人の子イエスの無罪と裁判の不当性を訴えます。ユダの生涯が自死という仕方で終わったとしても、『聖書』にその死に方を咎め立てた箇所はありません。『聖書』は生き方を問うのであり、自死を罪あるものと定めたのはむしろ遙かのちに世俗権力と結託した教会が作り出した教理に過ぎません。
「裏切り」と訳されるギリシア語「パラドゥーナイ」は本当のところ「引渡す、委ねる」に意味が近いと考えられます。ユダは祭司長たちにイエスを引渡し、祭司長たちはローマ帝国の総督ピラトに、そしてピラトは十字架にイエスを引渡すにいたります。その意味では瑣末ながら最初にイエスを引渡したユダに決定的な責任がありますが、福音書の書き手はその責任を「一二人の弟子」を代表する責任として描くのです。
イスカリオテのユダが神に救われたかどうかについてはわたしたちは神の国の訪れを前にして沈黙しなくてはなりません。しかしこの沈黙の中で祈りが生まれます。イスカリオテのユダもまた神の救いの計画の中に織り込まれていたのです。
わたしたちは各々勝手なラベリングでもって『聖書』のことばを縛ろうとしますが、そのような頑ななわたしたちをイエス・キリストは自らに課せられた十字架刑と死、そして埋葬と復活によって打ち砕かれます。わたしたちもまたさまざまな破れと不確かさを抱えていますが、主なる神の愛はわたしたちの過ちによって破られはしません。イスカリオテのユダのような弱さを抱えながらも、わたしたちは主なる神に備えられた神の道をイエス・キリストとともに旅しているのです。みなさまの一週間を主なる神の愛がつつんでくださりますよう願って止みません。
今朝の『聖書』を読み解く上で異彩を放つのは『ヨハネによる福音書』でイエスが一二弟子の一人を「悪魔」だと宣言するところ。福音書の書き手集団は、悪魔扱いされた弟子をイスカリオテのユダであると書き記します。
ただし細かくこのユダの姿を掘り下げてみますと、ステレオタイプのユダのイメージが浅薄であると気付かされます。人の子イエスの身に危機が迫るに従って弟子の多くは逃げてしまいます。これはペトロも同じなのですが、イスカリオテのユダは、人の子イエスの無罪と裁判の不当性を訴えます。ユダの生涯が自死という仕方で終わったとしても、『聖書』にその死に方を咎め立てた箇所はありません。『聖書』は生き方を問うのであり、自死を罪あるものと定めたのはむしろ遙かのちに世俗権力と結託した教会が作り出した教理に過ぎません。
「裏切り」と訳されるギリシア語「パラドゥーナイ」は本当のところ「引渡す、委ねる」に意味が近いと考えられます。ユダは祭司長たちにイエスを引渡し、祭司長たちはローマ帝国の総督ピラトに、そしてピラトは十字架にイエスを引渡すにいたります。その意味では瑣末ながら最初にイエスを引渡したユダに決定的な責任がありますが、福音書の書き手はその責任を「一二人の弟子」を代表する責任として描くのです。
イスカリオテのユダが神に救われたかどうかについてはわたしたちは神の国の訪れを前にして沈黙しなくてはなりません。しかしこの沈黙の中で祈りが生まれます。イスカリオテのユダもまた神の救いの計画の中に織り込まれていたのです。
わたしたちは各々勝手なラベリングでもって『聖書』のことばを縛ろうとしますが、そのような頑ななわたしたちをイエス・キリストは自らに課せられた十字架刑と死、そして埋葬と復活によって打ち砕かれます。わたしたちもまたさまざまな破れと不確かさを抱えていますが、主なる神の愛はわたしたちの過ちによって破られはしません。イスカリオテのユダのような弱さを抱えながらも、わたしたちは主なる神に備えられた神の道をイエス・キリストとともに旅しているのです。みなさまの一週間を主なる神の愛がつつんでくださりますよう願って止みません。
2024年2月25日日曜日
2024年3月3日(日) 礼拝 予定
ー受難節第3主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「一二人の弟子の一人であるユダ」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』6章60~71節
(新約聖書 177頁).
讃美= 258,21-575,21-27.
説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。
受難節第2主日礼拝を献げることができました
おかげさまで受難節第2主日礼拝を献げることができました。春の訪れを告げる曇天と雨のなかイエス・キリストの苦難の道を思い出しながらの礼拝となりました。
本日の礼拝を以て2月の礼拝を全ういたします。いよいよ来月から本格的に次年度の備えが始まります。
慌ただしさのなか目先の事柄に幻惑されるわたしたちですが、そのようななかでイエス・キリストはわたしたちの目を開けさせ、肝腎要な事柄を見極めさせてくださいます。
紅梅も散りましたが、その代わりに主なる神は色彩さまざまな花をいたるところに咲かせてくださいます。
新しく始まる三月。冬から春へと生命のリズムが大きく変わります。みなさまにはお身体にくれぐれもお気をつけてください。わたしたちの苦難をともにしてくださる主イエス・キリストを仰ぎながらともにあゆみましょう。
本日の礼拝を以て2月の礼拝を全ういたします。いよいよ来月から本格的に次年度の備えが始まります。
慌ただしさのなか目先の事柄に幻惑されるわたしたちですが、そのようななかでイエス・キリストはわたしたちの目を開けさせ、肝腎要な事柄を見極めさせてくださいます。
紅梅も散りましたが、その代わりに主なる神は色彩さまざまな花をいたるところに咲かせてくださいます。
新しく始まる三月。冬から春へと生命のリズムが大きく変わります。みなさまにはお身体にくれぐれもお気をつけてください。わたしたちの苦難をともにしてくださる主イエス・キリストを仰ぎながらともにあゆみましょう。
登録:
投稿 (Atom)




_01.jpg)



_01.jpg)


_1.jpg)



