おかげさまで降誕節第4主日礼拝を献げることができました。
ここ数日、堺市でも凍えるような寒さが続きました。またこの一週間を顧みるに、新型感染症の新たな株の流行だけでなく、17歳の少年による大学入試試験会場での事件など人心の荒み窮まるような知らせを耳にします。
高度経済成長期とその実りに酔いしれていた時代に、わたしたちは「頑張る」という言葉を美徳としてきましたが、コロナ禍以降、無用な頑張りは心身の健やかさを蝕むどころか、他者をも深く傷つけることに気づかされてまいりました。「頑張る」という言葉に潜む暴力性により「頑張れない」人々を排除するというきわめて全体主義的な発想に教会の奉仕や交わりも毒されてきたように思います。いくら頑張っても地球規模の災害や気候変動にはあまりにも無力だとこの朝も感じ入るほかありませんでした。
自己中心的な頑張りから、課題を神に委ねて時を置き、新しい可能性への扉を開くことがわたしたちには赦されています。また、課題をみなでともに分かちあい、自己責任から連帯責任への道を拓くこともできます。
神は人に頑張りを求めません。神が求めるのは真摯に生きようとしながらも挫折し、砕かれた魂であり、キリストにある誠実さです。キリストへの誠実さが隣人に向けられるのであれば、そこに愛が生まれます。
キリストが弟子にふさわしい者として漁師を選んだのは、大自然を前にしての頑張りの無意味さと、それでも舟を漕ぎ出そうとする暮らしへの誠実さを肌で感じとっていたからではないでしょうか。新しい一週間、世は波風に荒れていたとしても、キリスト自らの誠実さに照らされた日々を過ごしたく願います。