2025年9月7日日曜日

聖霊降臨節第14主日礼拝を献げることができました

みなさまのお祈りのお陰で本日は聖霊降臨節第14主日礼拝を献げることができました。
 

礼拝では『マタイによる福音書』13章24〜30節をテキストとして「麦と毒麦」をめぐる人の子イエスの譬え話を土台にメッセージを共有しました。

隣国との緊張関係が続く地域の田畑の主人は、本来ならば食用の麦であればまだしも、その実に毒素を含んだ毒麦の種子が蒔かれるならばしもべを用いて直ちに選別の作業にかかるのが常道のはずです。

しかしこの箇所の畑の主人はしもべの云う毒麦が本当かどうか分からないからもう少し時をおきなさいと命じるのです。

わたしたち人間の認識とはときに全体を把握せず一部を以て結論を出しがちです。しかしこの譬え話に描かれる麦畑の主人は慎重を期して選別を先延ばしにします。そのなかで人の尺度ではなく神の尺度でもって事態を収拾しようとするのです。
 

わたしたちはともすれば通俗道徳や身辺にはびこる「常識」でもってことの善悪を測りがちです。しかしこの譬え話に登場する畑の主人は早急な判断には立ちません。

思えばイエス・キリストはその時代に罪人として定められた人々のために十字架で処刑され その後に復活されました。この出来事のなかで「毒麦」として定められた人々も神の恵みの養いを授かったはずです。
 

言語や習慣の異なる人々がお互いを「毒麦」呼ばわりして排除しようとする現代 神の前の自己吟味に留まらず隣人を受け入れる第一歩として自らが毒麦であるとの立場を選ぶのも悪くはありません。

自らが毒麦と思い込んだ筈の難民や無国籍の方々 また家族のなかで「はみだしもの」として腫れもののように見なしている者との関係に神の真理が宿っているとの可能性は大いにあり得ます。それはほかならぬ「いのちの可能性」です。

偏見に基づく「選別と排除」を超えて イエス・キリストが毒麦の「毒」を清めてくださります。

だからこそわたしたちは「清められた者」として 社会の歪みに根をおろす差別やいのちへの冒涜に抵抗できるのです。

酷暑はまだまだ続きますが みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますように。主なる神がすべてのいのちを祝福されています。その確信をともに分かちあいましょう。