―受難節第2主日礼拝―
時間:10時30分~2023年2月26日日曜日
受難節第1主日礼拝を献げることができました
みなさまの尊いお祈りのお陰で、受難節第1主日礼拝を献げることができました。日毎に春の訪れを感じますが、それでも吹く風の冷たさに身を震わせる時もあり、まだまだ油断は禁物です。
先週の水曜日から教会はキリストの受難を刻むための暦を刻んでまいりますが、教会が生まれたばかりの時代にはクリスマスよりもキリストの受難と十字架での死、葬りと復活のほうが遥かに重要な使信でした。それにもかかわらず、日本ではまだまだ復活のメッセージの共有は難しいところがあります。
その理由には復活の出来事そのものの理解や伝え方にもよるかもしれませんが、復活日、すなわちイースターが太陰暦によりカウントされた結果、太陽暦では移動聖日となり商業化しづらいところがあるでしょう。
しかもこの祝いの日は年度末から年度初めへとまたがる場合が多く、何かと忙しい時期に重なる場合が多いのです。
けれどもこの忙しい時期だからこそ、わたしたちは神さまからキリストの復活という「豪速球」を投げられるのではないでしょうか。
この「いのちの豪速球」は日常のスケジュール調整に気を取られるわたしたちの暮らしのど真ん中に投げ込まれてきます。その勢いを前にしてわたしたちは日々の日常を中断せずにはおれなくなり、「いのちのボール」がどこにあるのか探すほかに道はありません。うろたえる隙も迷いもどこかへと消え去ってしまいます。
ウクライナ戦争やトルコ・シリア大地震の報の一方で、わたしたちの日常に奥深く隠された、いのちに対する軽々な姿勢をただすために神さまはキリストという名の豪速球を投げ込んできます。トピックとしては言葉だけがひとり歩きしがちな世界史的一大事も、本来はわたしたちの小さな日常の延長線上にあります。
泉北ニュータウン教会では受難節には荊の燭台に灯されたろうそくの火を一つずつ消してキリストのあゆみに思いを重ねます。キリストがわたしたちの生きる世の苦しみを担ってくださっているとの確信を堅めながら、神の愛の豪速球の前に立ちたいと願います。みなさまの新しい一週間にキリストがともにおられますように。主にありて。
しかもこの祝いの日は年度末から年度初めへとまたがる場合が多く、何かと忙しい時期に重なる場合が多いのです。
けれどもこの忙しい時期だからこそ、わたしたちは神さまからキリストの復活という「豪速球」を投げられるのではないでしょうか。
この「いのちの豪速球」は日常のスケジュール調整に気を取られるわたしたちの暮らしのど真ん中に投げ込まれてきます。その勢いを前にしてわたしたちは日々の日常を中断せずにはおれなくなり、「いのちのボール」がどこにあるのか探すほかに道はありません。うろたえる隙も迷いもどこかへと消え去ってしまいます。
泉北ニュータウン教会では受難節には荊の燭台に灯されたろうそくの火を一つずつ消してキリストのあゆみに思いを重ねます。キリストがわたしたちの生きる世の苦しみを担ってくださっているとの確信を堅めながら、神の愛の豪速球の前に立ちたいと願います。みなさまの新しい一週間にキリストがともにおられますように。主にありて。
2023年2月19日日曜日
降誕節第9主日礼拝を献げることができました
春の嵐の夜が明けて、降誕節第9主日礼拝を献げることができました。
二月も後半を迎えて、2022年度のまとめと2023年度へのあゆみを組み立てる候となりました。
本日の聖書の箇所は『ルカによる福音書』9章10〜17節に描かれた「5000人の共食(きょうしょく。食をともにすること)」の箇所。男性だけで5000人とありますから、字義通りに受け入れれば1万人を超える人々が名もない「群集」として主イエスの招きに応じました。
貧しさのどん底にいたであろうこの人々が暴れもせず暴動も起こさなかったのはイエス・キリストに招かれた、という存在の肯定の中で神より落ち着きを賜わったからだとの理解も可能です。この落ち着きの中、五十人くらいずつの群れに分けられて座り、赤の他人であった人々は交わりを授かります。日も傾くなか、弟子たちが盛んに解散させようとしたのとは対照的に、イエス・キリストが当時の粗末な携行食であった「五つのパンと二匹の魚」を神に感謝しながら分けます。弟子たちがその食事を配る中で、人々もまたイエス・キリストに倣って互いに持参した粗末な食事を分けあったことが考えられます。それは群衆を前に怯み、お金での解決をほのめかした弟子たちをも驚きの中で満たす出来事でもありました。
わたしたちは分かちあえるのは「豊かさ」ばかりであると思い込んでいますが、イエスの行なった奇跡とは、「貧しさ」もまた分かちあえるものだとお示しになったことではないでしょうか。何も持たないはずの人々が、互いに奪いあうのではなく分かちあったことそのものが奇跡だというのは読み込みすぎでしょうか。
暮らしの危機的な状況の中で育まれた交わりや絆ほど強固なものはありません。わたしたちが「主にある交わり」を考えるとき、経済的な豊かさばかりを前提にしている破れを負っているのに気づかされます。それは授けられていたはずの「神の愛の力」の放棄なのかもしれません。大切なのは「献げる」わざであり「捨てる」わざではないのです。
紅白の梅の花の蜜をメジロが吸いにきます。メジロはお金があるから蜜を吸えるのではありません。わたしたちは「お金があること」と「食を授かること」を混同しています。コロナ禍をひきずりながら、貧困のなかに生きるほかない今だからこそ、教会のわざはわたしたちにも、また地域社会にも希望の光を灯しています。
春の訪れのなか、互いに支えあいながら新しい一週間を始めましょう。とりわけこの週に天に召された大切な教会関係者もまた、キリストとともにいると確信しながらあゆみたく存じます。
本日の聖書の箇所は『ルカによる福音書』9章10〜17節に描かれた「5000人の共食(きょうしょく。食をともにすること)」の箇所。男性だけで5000人とありますから、字義通りに受け入れれば1万人を超える人々が名もない「群集」として主イエスの招きに応じました。
貧しさのどん底にいたであろうこの人々が暴れもせず暴動も起こさなかったのはイエス・キリストに招かれた、という存在の肯定の中で神より落ち着きを賜わったからだとの理解も可能です。この落ち着きの中、五十人くらいずつの群れに分けられて座り、赤の他人であった人々は交わりを授かります。日も傾くなか、弟子たちが盛んに解散させようとしたのとは対照的に、イエス・キリストが当時の粗末な携行食であった「五つのパンと二匹の魚」を神に感謝しながら分けます。弟子たちがその食事を配る中で、人々もまたイエス・キリストに倣って互いに持参した粗末な食事を分けあったことが考えられます。それは群衆を前に怯み、お金での解決をほのめかした弟子たちをも驚きの中で満たす出来事でもありました。
わたしたちは分かちあえるのは「豊かさ」ばかりであると思い込んでいますが、イエスの行なった奇跡とは、「貧しさ」もまた分かちあえるものだとお示しになったことではないでしょうか。何も持たないはずの人々が、互いに奪いあうのではなく分かちあったことそのものが奇跡だというのは読み込みすぎでしょうか。
暮らしの危機的な状況の中で育まれた交わりや絆ほど強固なものはありません。わたしたちが「主にある交わり」を考えるとき、経済的な豊かさばかりを前提にしている破れを負っているのに気づかされます。それは授けられていたはずの「神の愛の力」の放棄なのかもしれません。大切なのは「献げる」わざであり「捨てる」わざではないのです。
紅白の梅の花の蜜をメジロが吸いにきます。メジロはお金があるから蜜を吸えるのではありません。わたしたちは「お金があること」と「食を授かること」を混同しています。コロナ禍をひきずりながら、貧困のなかに生きるほかない今だからこそ、教会のわざはわたしたちにも、また地域社会にも希望の光を灯しています。
春の訪れのなか、互いに支えあいながら新しい一週間を始めましょう。とりわけこの週に天に召された大切な教会関係者もまた、キリストとともにいると確信しながらあゆみたく存じます。
2023年2月12日日曜日
降誕節第8主日礼拝を献げることができました
暖かな日差しのなか、降誕節第8主日礼拝を献げることができました。天に召された教会員・教会関係者を偲び、ご遺族に慰めと癒しを祈る時を尊びながら、これより年度末のまとめと新年度への備えに向けて祈りをあわせる時を迎えました。
イスラエルの民がバビロン捕囚ののちにエルサレムへと帰還し、ソロモンの神殿よりも小さな神殿を建設し再興を誓ったように、わたしたちも教会の交わりの再構築に留まらず新しい可能性を目指して励んでまいります。
さて、日本社会の代表的な徳目とされる「他人に迷惑をかけないように」とは反対に、イエスに病の癒しを求めて、中風持ちの仲間を戸板に乗せ運んできた男たちは、人垣を乗り越えイエスの滞在する家屋の屋根を引き剥がし仲間を吊り下ろしました。イエスは迷惑を顧みないこの人々を遠ざけるどころか「あなたの罪は赦された」と仰せになりました。「迷惑をかけないように」とのことばは、ときに自己責任論に進展し、さまざまな課題を抱えた人々を抑圧しかねない論調へとつながります。イエス・キリストが「世のすべての迷惑」を分かちあい、十字架を背負ってあゆまれた物語を思い起こしますと、わたしたちはその赦しの姿に隠された神の力を見出すのです。
わたしたちは互いに迷惑をかけあいながら活かされています。その交わりの軸にイエス・キリストは立っておられます。人生の新たな節目を迎えた方々とともに、この一週間もまたキリスト・イエスとともに神の愛に背中を押されてあゆんでまいりましょう。みなさまに主なる神の平安を祈ります。
イスラエルの民がバビロン捕囚ののちにエルサレムへと帰還し、ソロモンの神殿よりも小さな神殿を建設し再興を誓ったように、わたしたちも教会の交わりの再構築に留まらず新しい可能性を目指して励んでまいります。
さて、日本社会の代表的な徳目とされる「他人に迷惑をかけないように」とは反対に、イエスに病の癒しを求めて、中風持ちの仲間を戸板に乗せ運んできた男たちは、人垣を乗り越えイエスの滞在する家屋の屋根を引き剥がし仲間を吊り下ろしました。イエスは迷惑を顧みないこの人々を遠ざけるどころか「あなたの罪は赦された」と仰せになりました。「迷惑をかけないように」とのことばは、ときに自己責任論に進展し、さまざまな課題を抱えた人々を抑圧しかねない論調へとつながります。イエス・キリストが「世のすべての迷惑」を分かちあい、十字架を背負ってあゆまれた物語を思い起こしますと、わたしたちはその赦しの姿に隠された神の力を見出すのです。
わたしたちは互いに迷惑をかけあいながら活かされています。その交わりの軸にイエス・キリストは立っておられます。人生の新たな節目を迎えた方々とともに、この一週間もまたキリスト・イエスとともに神の愛に背中を押されてあゆんでまいりましょう。みなさまに主なる神の平安を祈ります。
2023年2月5日日曜日
本日の降誕節第7主日礼拝を通常形式の礼拝として献げることができました。
立春を迎えた二月初めての聖日礼拝でもあった、本日の降誕節第7主日礼拝。みなさまの尊いお祈りのおかげで、ようやく通常形式の礼拝を献げることができました。教会員・教会関係者のいのちを大切にするとの観点からクリスマス礼拝以来リモート中継礼拝のみに絞りこんでの礼拝が続きましたが、ほぼひと月ぶりに互いに顔と顔を合わせて安否を問うこともできたのは幸いでした。
しかしその一方で、この期間に天に召された教会員の報せもありました。キリストの復活のメッセージを互いに分かち合いつつ、しばらくの間の世にある別れを惜しみました。
『旧約聖書』の成立に深く影響を及ぼしたのは、バビロン捕囚という出来事。二次、または三次にまで及ぶとされたこの捕囚の体験は、古代イスラエルの民に神との新しい契約をほのかに、しかし確実に示しました。それだけではなく、イスラエルの民自らに深い祈りと内省の時ももたらしました。
新型コロナウイルス感染症の流行により長期にわたる在宅礼拝を余儀なくされたわたしたちには、これまでの期間は「教会のバビロン捕囚」と呼んでもよい時ではありました。しかし同時に教会の交わりの新しい可能性を模索する貴重な時ともなりました。
天に召された教会員を覚えながら、新しい一週間を、神さまの愛なる力に背中を押していただきながら始めたく存じます。
みなさまのあゆみに主なる神の癒しと慰めと祝福とがともにありますよう祈ります。深い感謝とあわせて。
しかしその一方で、この期間に天に召された教会員の報せもありました。キリストの復活のメッセージを互いに分かち合いつつ、しばらくの間の世にある別れを惜しみました。
『旧約聖書』の成立に深く影響を及ぼしたのは、バビロン捕囚という出来事。二次、または三次にまで及ぶとされたこの捕囚の体験は、古代イスラエルの民に神との新しい契約をほのかに、しかし確実に示しました。それだけではなく、イスラエルの民自らに深い祈りと内省の時ももたらしました。
新型コロナウイルス感染症の流行により長期にわたる在宅礼拝を余儀なくされたわたしたちには、これまでの期間は「教会のバビロン捕囚」と呼んでもよい時ではありました。しかし同時に教会の交わりの新しい可能性を模索する貴重な時ともなりました。
天に召された教会員を覚えながら、新しい一週間を、神さまの愛なる力に背中を押していただきながら始めたく存じます。
みなさまのあゆみに主なる神の癒しと慰めと祝福とがともにありますよう祈ります。深い感謝とあわせて。
登録:
投稿 (Atom)