2025年9月14日日曜日

2025年9月21日(日) 礼拝 予定

        ―聖霊降臨節第16主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「さまよう羊を追いかける羊飼い」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』18章10~14節
(新約35頁)
讃美=239,21-402(502),21-26


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。
 

聖霊降臨節第15主日礼拝を献げました

おかげさまで聖霊降臨節第15主日礼拝を献げました。この日の聖日礼拝は長寿感謝の日礼拝とし この祝福には19名の教会員が授かりました。礼拝の後には記念写真を撮影しともに慶びを分かちあいました。
 

礼拝後には教会員だけでなく こひつじこども園職員 放課後等デイサービス こひつじ職員の職員研修を行いました。「教会とこども園(社会福祉法人)は車の両輪」との自覚に立つ事業体として祈りに始まり 祈りに終わるよき学びの会となりました。
 

聖書研究会 祈祷会 みのり会という平日定例集会がコロナ禍以前の状態にようやく戻りました。特に祈祷会にはコロナ禍以前よりも出席者が増えました。みなさまのお祈りには衷心より感謝申しあげます。
 

新しい一週間が始まります。みなさまの一日いちにちに主なる神の祝福と平和がありますように。世界の紛争地に一日も早く平和が訪れますよう祈ります。

2025年9月7日日曜日

2025年9月14日(日) 礼拝 予定

        ―聖霊降臨節第15主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「神の輝く真珠を身につけて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章44~50節
(新約26頁)
讃美=517,520,Ⅱ 192(1 節のみ),21-26


説教要旨・動画、ライブ中継については、
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「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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聖霊降臨節第14主日礼拝を献げることができました

みなさまのお祈りのお陰で本日は聖霊降臨節第14主日礼拝を献げることができました。
 

礼拝では『マタイによる福音書』13章24〜30節をテキストとして「麦と毒麦」をめぐる人の子イエスの譬え話を土台にメッセージを共有しました。

隣国との緊張関係が続く地域の田畑の主人は、本来ならば食用の麦であればまだしも、その実に毒素を含んだ毒麦の種子が蒔かれるならばしもべを用いて直ちに選別の作業にかかるのが常道のはずです。

しかしこの箇所の畑の主人はしもべの云う毒麦が本当かどうか分からないからもう少し時をおきなさいと命じるのです。

わたしたち人間の認識とはときに全体を把握せず一部を以て結論を出しがちです。しかしこの譬え話に描かれる麦畑の主人は慎重を期して選別を先延ばしにします。そのなかで人の尺度ではなく神の尺度でもって事態を収拾しようとするのです。
 

わたしたちはともすれば通俗道徳や身辺にはびこる「常識」でもってことの善悪を測りがちです。しかしこの譬え話に登場する畑の主人は早急な判断には立ちません。

思えばイエス・キリストはその時代に罪人として定められた人々のために十字架で処刑され その後に復活されました。この出来事のなかで「毒麦」として定められた人々も神の恵みの養いを授かったはずです。
 

言語や習慣の異なる人々がお互いを「毒麦」呼ばわりして排除しようとする現代 神の前の自己吟味に留まらず隣人を受け入れる第一歩として自らが毒麦であるとの立場を選ぶのも悪くはありません。

自らが毒麦と思い込んだ筈の難民や無国籍の方々 また家族のなかで「はみだしもの」として腫れもののように見なしている者との関係に神の真理が宿っているとの可能性は大いにあり得ます。それはほかならぬ「いのちの可能性」です。

偏見に基づく「選別と排除」を超えて イエス・キリストが毒麦の「毒」を清めてくださります。

だからこそわたしたちは「清められた者」として 社会の歪みに根をおろす差別やいのちへの冒涜に抵抗できるのです。

酷暑はまだまだ続きますが みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますように。主なる神がすべてのいのちを祝福されています。その確信をともに分かちあいましょう。

2025年8月31日日曜日

2025年9月7日(日) 礼拝 予定

       ―聖霊降臨節第14主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「人生の実りに問われる生き方」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章24~30節
(新約25頁)
讃美=21-421(日本語),21-434(320),21-26


説教要旨・動画、ライブ中継については、
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聖霊降臨節第13主日礼拝を献げることができました

おかげさまで8月31日 聖霊降臨節第13主日礼拝を献げることができました。人の子イエスが血のつながる家族の訪問を受けて群衆と弟子を示しながら「わたしの母とは誰か 兄弟とは誰か」と返答し 弟子を示して「ここにわたしの母 わたしの兄弟がいる」と返答する場面が本日の箇所でした。
 

現代のガザ地区侵攻問題にも重なりますが『旧約聖書』の『ヨシュア記』や『士師記』には「聖絶」として解釈される場面があります。その箇所だけ切り抜けば特定の民族に対するジェノサイドが神の命令により正当化されるという理解。それが「聖絶」と呼ばれます。

しかし現代ではいかなる理由があろうとも戦闘員・民間人を問わず絶滅戦争や虐殺が赦されるなどという理屈がまかり通ってよいはずがありません。それでは『旧約聖書』でそのような愚行を牽制するしくみがあるとするならばそれは何でしょうか。

端的にいえばそのしくみとはイスラエルの民以外のアンモン人であれペリシテ人であれ「神の似姿」として創造され、かつすべての人々がエバとアダムの末裔であり血縁関係があるとの理解に根ざします。則ちいかなる敵対関係にあろうとも特定の民族を絶滅に追いやる行為は「カインとアベル」の物語にあるごとく「兄弟殺し」の謗りを免れないところにそのしくみがあります。日本でも戦国武将同士の婚姻関係は対立する武将相互の和睦を意味しました。

しかしこのような仕方での和解とは血縁関係に連なる者に何らかの痛みを強いずにはおれません。人の子イエスが血のつながる家族を前にして敢えて群衆や弟子をして「わたしの母 わたしの兄弟」と称したのには 係累による強いられた苦しみの解放とともに 孤独に苛まれる人々へ新しい家族のモデルを提起してもいます。

『創世記』で示された家族の最小単位とは血族による「部族」や「一族」ではなく血縁のない「夫婦」となります。そのつながりを踏まえた上で ミケランジェロの「ピエタ」にあるような母と子の絆に初めていたります。
 

家族同士のDVや親による子殺しという残酷な報道が相次ぐなか イエス・キリストの示す交わりへ依存することにより 主にある平安をとりもどすという道が拓けるように思います。課題を独りで背負い思い詰める前に まず教会やその付帯施設の門を叩いていただきたいと願います。あなたは決して独りではありません。

9月が始まります。みなさまには酷暑の疲れが癒されますよう祈ります。

2025年8月24日日曜日

2025年8月31日(日) 礼拝 予定

      ―聖霊降臨節第13主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の家族に連なる喜び」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12 章46~50 節
(新約23頁)
讃美=90,21-566(536),21-24


説教要旨・動画、ライブ中継については、
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