2025年8月31日日曜日

2025年9月7日(日) 礼拝 予定

       ―聖霊降臨節第14主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「人生の実りに問われる生き方」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章24~30節
(新約25頁)
讃美=21-421(日本語),21-434(320),21-26


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

聖霊降臨節第13主日礼拝を献げることができました

おかげさまで8月31日 聖霊降臨節第13主日礼拝を献げることができました。人の子イエスが血のつながる家族の訪問を受けて群衆と弟子を示しながら「わたしの母とは誰か 兄弟とは誰か」と返答し 弟子を示して「ここにわたしの母 わたしの兄弟がいる」と返答する場面が本日の箇所でした。
 

現代のガザ地区侵攻問題にも重なりますが『旧約聖書』の『ヨシュア記』や『士師記』には「聖絶」として解釈される場面があります。その箇所だけ切り抜けば特定の民族に対するジェノサイドが神の命令により正当化されるという理解。それが「聖絶」と呼ばれます。

しかし現代ではいかなる理由があろうとも戦闘員・民間人を問わず絶滅戦争や虐殺が赦されるなどという理屈がまかり通ってよいはずがありません。それでは『旧約聖書』でそのような愚行を牽制するしくみがあるとするならばそれは何でしょうか。

端的にいえばそのしくみとはイスラエルの民以外のアンモン人であれペリシテ人であれ「神の似姿」として創造され、かつすべての人々がエバとアダムの末裔であり血縁関係があるとの理解に根ざします。則ちいかなる敵対関係にあろうとも特定の民族を絶滅に追いやる行為は「カインとアベル」の物語にあるごとく「兄弟殺し」の謗りを免れないところにそのしくみがあります。日本でも戦国武将同士の婚姻関係は対立する武将相互の和睦を意味しました。

しかしこのような仕方での和解とは血縁関係に連なる者に何らかの痛みを強いずにはおれません。人の子イエスが血のつながる家族を前にして敢えて群衆や弟子をして「わたしの母 わたしの兄弟」と称したのには 係累による強いられた苦しみの解放とともに 孤独に苛まれる人々へ新しい家族のモデルを提起してもいます。

『創世記』で示された家族の最小単位とは血族による「部族」や「一族」ではなく血縁のない「夫婦」となります。そのつながりを踏まえた上で ミケランジェロの「ピエタ」にあるような母と子の絆に初めていたります。
 

家族同士のDVや親による子殺しという残酷な報道が相次ぐなか イエス・キリストの示す交わりへ依存することにより 主にある平安をとりもどすという道が拓けるように思います。課題を独りで背負い思い詰める前に まず教会やその付帯施設の門を叩いていただきたいと願います。あなたは決して独りではありません。

9月が始まります。みなさまには酷暑の疲れが癒されますよう祈ります。

2025年8月24日日曜日

2025年8月31日(日) 礼拝 予定

      ―聖霊降臨節第13主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の家族に連なる喜び」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12 章46~50 節
(新約23頁)
讃美=90,21-566(536),21-24


説教要旨・動画、ライブ中継については、
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聖霊降臨節第12主日礼拝を迎えられました

おかげさまで聖霊降臨節第12主日礼拝を迎えられました。説教タイトルは人の子イエスの語った教えでもある「蛇のように賢く 鳩のように素直であれ」との箇所でした。
 

初代教会への大弾圧を視野に入れながら人の子イエスは「蛇のように賢く 鳩のように素直であれ」と語ります。初代教会ではまずは「救い主はイエスとして来り賜う」との立場から、救い主の訪れを認めない古代ユダヤ教から石を投げられ排除を伴う弾圧を受けました。さらにローマ帝国からは皇帝に対する礼拝を拒否した多くの信徒が見せもののように暴力による弾圧を受けました。

しかしそのような迫害下でもキリスト教徒は恐れず愛のわざを神の愛の証しとして恐れず 隣人を愛し続けました。
 

現代のわたしたちはとかく「家庭の融和」という観点から争いを遠ざけようとします。しかしヘイト発言やレイシズムによって苦しむ人々との連帯を教会が大切にしてきたのも確かな事実です。

「蛇のような賢さ」とはキリストのもとにある「鳩のような素直さ」と不可分です。この賢さと素直さこそ キリストが語り賜うたわたしたちのあり方であり賜物です。神の愛による世の統治こそ わたしたちの愛のわざの目標であり キリストがわたしたちに約束された福音(よろこびの報せ)です。
 

まだまだ酷暑が続きますが みなさまの新しい一週間に主なる神の平和がありますよう祈ります。

2025年8月17日日曜日

2025年8月24日(日) 礼拝 予定

      ―聖霊降臨節第12主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「蛇のように賢く鳩のように素直であれ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10 章16~23 節
(新約18頁)
讃美=21-494(228),21-540(403),21-24


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聖霊降臨節第11主日礼拝をお献げできました

 みなさまのおかげで本日は聖霊降臨節第11主日礼拝をお献げできました。『マタイによる福音書』10章1〜15節。人の子イエスが十二弟子を派遣するとの箇所をテキストとしました。
 

 人の子イエスが派遣した十二弟子は、漁師ペトロとアンデレ、徴税人マタイ、熱心党のシモンらだけでなく「裏切者」とのラベルを貼られるイスカリオテのユダも数えられるという実に多様性に満ちた群れでした。この人々はまさしく人としてのイエスの生涯につき従いながらもその苦難の極みにはイエスのもとから離れていきます。イスカリオテのユダはその象徴です。

 しかしわたしたちはこの群れのなかに使徒パウロの姿を見ません。パウロは元来古代ユダヤ教の律法学者として初代教会に集うキリスト教徒を迫害しており その姿が物語に登場するのは『使徒言行録』に入ってからです。
 

 確かにイスカリオテのユダは人の子イエスを祭司長たちに引き渡しましたが ユダが殺人を犯したとはどこにも記述されません。他方でパウロは律法学者サウロと称していたころには数多のキリスト教徒を捕らえその殺害に賛成していたと言われます。現代人からすればイスカリオテのユダよりもパウロのほうが罪深いように思われます。

 実際のところイスカリオテのユダを加えた十二弟子はイエス・キリストの苦難と死から遠ざかりました。他方で律法学者サウロは復活したイエス・キリストの声を聞き生涯の大転換を成し遂げ 異邦人にイエス・キリストの福音を宣べ伝えます。

 人の子イエスに従いきれなかった十二弟子は その弱さとともに各々の多様性を活かされて宣教の旅に出かけました。他方で史実上の存在としてのイエスとは面識のないパウロは人の子に従った直接の弟子からその生きざまと十字架での死 そして復活の出来事に示された神の愛を伝えるべく地中海世界を奔走しました。この二つの潮流がひとつになってわたしたちに「主なる神の平安」を注ぎます。
 

 戦後80年目の八月十五日を迎えました。わたしたちのまわりにはさまざまな断絶と対立と格差にあふれています。異なる民の交わりにある豊かな多様性でさえ否定されかねない現状があります。わたしたちはあらゆる軍備拡大とヘイト運動から距離をおき 主なる神に祝福された交わりを耕してまいります。「あなたがたに平和があるように」との挨拶をイエス・キリストは弟子に教えられました。その挨拶を交わすための祈りを献げる一週間を始めたく存じます。

 みなさまに主なる神の祝福がますます豊かに臨みますよう祈ります。

2025年8月10日日曜日

2025年8月17日(日) 礼拝 予定

     ―聖霊降臨節第11主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「十二弟子が旅立つとき」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10章1~15節
(新約17頁)
讃美=21-466(404),21-529(333),21-24


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
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聖霊降臨節第10主日礼拝を献げることができました

みなさまのお祈りのおかげで聖霊降臨節第10主日礼拝を献げることができました。礼拝のテキストは『マタイによる福音書』9章9〜13節、当時は賎業であった徴税人マタイ(福音書の書き手集団の人々とは異なります)を始め「大勢の罪人」も多く集まった席で食卓を囲んだ人の子イエスによる「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」との言葉のもと交わりを育む場面でした。
 

 『新約聖書』の物語の文脈で徴税人が人々から嫌われていたのは察せるものの食卓に集まった「大勢の罪人」各々の姿がわたしたちには今ひとつ曖昧です。

しかしながら福音書の世界では「法に触れた」人々だけでなく不治の病やこころの病による障がいを身に帯びた人々をも「罪人」として定められていました。このような人々が一般の交わりから遠ざけられていた事情を踏まえると イエス・キリストを囲む交わりが一般には「異形の者の集い」の体であったと偲ぶこともできます。
 

戦争を敗戦という仕方で終えたわたしたちの日常には絶えずその影がつきまとってきました。サンフランシスコ講和条約により恩給の対象から外され「傷痍軍人」としてアコーディオンの物悲しげな旋律とともに白衣を着て生活支援を訴えていた人々・核兵器により重度の火傷や放射線障がいのなかで退けられていった人々・戦後に「特攻崩れ」として荒んでいった人々・戦災孤児としてなりふり構わず日々をしのがなくてはならなかったこどもたち。決して「昭和」には細かな考証による映像化もドラマ化もできなかった声なき叫びは実のところ高度経済成長期にも響いて止みませんでした。

徴税人マタイの家でイエス・キリストとともに食卓を囲んだ人々の姿を わたしたちは幼い日の記憶に重ねます。「新しい戦前」と「終わらぬ戦後」の重なりを思い起こします。

しかしこの「異形の者の集いと交わり」のなかにこそ神の愛による統治、すなわち神の国の姿のかけらが散りばめられています。昨年の「日本原水爆団体協議会」のノーベル平和賞受賞は次の点で画期的でした。すなわち世界で活躍の目立った歴史的な偉業を達成した人物でも 高名な篤志家でもなく 戦後79年間にわたり黙々と平和のためにあゆんできた原水爆の被害者のあゆみが全世界に発信されたのです。その結果 これまで原子爆弾の実戦使用を正当化してきたアメリカ合衆国でさえ若い世代には疑問と新たな問いの提起にさえなりました。
 
わたしたちが目を背けてきたり 公言できなかった日常のなかにこそ「神の国の断片」という希望が散りばめられています。そのかけらを集めてともにするのもまた礼拝の尊さにつながります。

酷暑と豪雨に苦しむこのごろの夏ですが だからこそそのような「神の国のかけら」を持ち寄って 愛の証しを立てていきたいと願います。

自然災害の危機が叫ばれる昨今だからこそ わたしたちはイエス・キリストを信頼する平安を大切な方々と分かちあいましょう。

2025年8月3日日曜日

2025年8月10日(日) 礼拝 予定

    ―聖霊降臨節第10主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「病の人を招く主イエス・キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』9章9~13節
(新約15頁)
讃美=21-371,21-402(502),21-24(539)


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

聖霊降臨節第9主日礼拝 平和聖日礼拝を献げることができました

みなさまのお祈りのおかげで聖霊降臨節第9主日礼拝 平和聖日礼拝を献げることができました。満洲事変以来15年にも及んだアジア・太平洋戦争の敗北を大日本帝国が認めてから80年を数える今年です。
 

テキストは『マタイによる福音書』8章5節から13節。病に苦しむ僕(しもべ)を案じたローマ帝国の百人隊長(小隊〜中隊を指揮する下級将校)の願いを聞き入れたイエス・キリストがその僕を癒やすという物語の解き明かしとなりました。
 

戦後80年の今となりますと 戦争体験者といえども戦火の嵐をくぐり抜けた「こどもたち」の世代が中心となり 従軍経験者の数は極端に少なくなります。実体験のない戦争論はいきおい安っぽいロマン主義的な物語をもたらし「もしもハイオクタンの燃料があれば日本の戦闘機は米国に勝っていた」というような仮想戦記をもたらしがちです。しかし実際にはそのような燃料の兵站が絶たれたからこそ敗戦となった現実を見ずに再軍備や核武装を語る政治家が後を絶ちません。

むしろ人の子イエスは本来ならば敵となるはずのローマ軍の下級将校の願いを聞き入れてその僕の病を癒しました。イエス・キリストはこの時点で「愛敵の教え」を自ら証ししています。

ひょっとしたら兵卒にもならかった一軍属の僕に向けられた百人隊長の願いは 負傷し手に負えなくなった兵士に安楽死を強要した日独ソ聯・連合軍の将校とは態度が全く異なります。慢性的な紛争が続くなか、部下を想うこの祈りをイエス・キリストは受け入れました。

パレスチナ、ウクライナ、インドシナ半島と銃声のもと民間の老若男女・こどもたちが犠牲になる今こそ、イエス・キリストの垣根を越えた神の愛に根ざす働きが求められているのではないでしょうか。現在のところ日本には多くの国から人々がお越しになり 医療・福祉・小売店の現場でお働きになっています。平均年齢50歳と言われる逆三角形の人口を筒形のかたちにするためにもお働きになる方々を悪しざまに扱ってよいはずがありません。

わたしたちは戦争の被害者であるとともに加害者でもあります。加害者としての責任を自覚しながらも海外からの旅人を受け入れたいと願います。差別は排除につながります。しかし区別は本来なら相手への理解に基づいた配慮へとつながります。そのような態度をキリストに従うなかで体得し 明日への希望の光を灯したいと願います。