2025年9月14日日曜日

2025年9月21日(日) 礼拝 予定

        ―聖霊降臨節第16主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「さまよう羊を追いかける羊飼い」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』18章10~14節
(新約35頁)
讃美=239,21-402(502),21-26


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。
 

聖霊降臨節第15主日礼拝を献げました

おかげさまで聖霊降臨節第15主日礼拝を献げました。この日の聖日礼拝は長寿感謝の日礼拝とし この祝福には19名の教会員が授かりました。礼拝の後には記念写真を撮影しともに慶びを分かちあいました。
 

礼拝後には教会員だけでなく こひつじこども園職員 放課後等デイサービス こひつじ職員の職員研修を行いました。「教会とこども園(社会福祉法人)は車の両輪」との自覚に立つ事業体として祈りに始まり 祈りに終わるよき学びの会となりました。
 

聖書研究会 祈祷会 みのり会という平日定例集会がコロナ禍以前の状態にようやく戻りました。特に祈祷会にはコロナ禍以前よりも出席者が増えました。みなさまのお祈りには衷心より感謝申しあげます。
 

新しい一週間が始まります。みなさまの一日いちにちに主なる神の祝福と平和がありますように。世界の紛争地に一日も早く平和が訪れますよう祈ります。

2025年9月7日日曜日

2025年9月14日(日) 礼拝 予定

        ―聖霊降臨節第15主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「神の輝く真珠を身につけて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章44~50節
(新約26頁)
讃美=517,520,Ⅱ 192(1 節のみ),21-26


説教要旨・動画、ライブ中継については、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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聖霊降臨節第14主日礼拝を献げることができました

みなさまのお祈りのお陰で本日は聖霊降臨節第14主日礼拝を献げることができました。
 

礼拝では『マタイによる福音書』13章24〜30節をテキストとして「麦と毒麦」をめぐる人の子イエスの譬え話を土台にメッセージを共有しました。

隣国との緊張関係が続く地域の田畑の主人は、本来ならば食用の麦であればまだしも、その実に毒素を含んだ毒麦の種子が蒔かれるならばしもべを用いて直ちに選別の作業にかかるのが常道のはずです。

しかしこの箇所の畑の主人はしもべの云う毒麦が本当かどうか分からないからもう少し時をおきなさいと命じるのです。

わたしたち人間の認識とはときに全体を把握せず一部を以て結論を出しがちです。しかしこの譬え話に描かれる麦畑の主人は慎重を期して選別を先延ばしにします。そのなかで人の尺度ではなく神の尺度でもって事態を収拾しようとするのです。
 

わたしたちはともすれば通俗道徳や身辺にはびこる「常識」でもってことの善悪を測りがちです。しかしこの譬え話に登場する畑の主人は早急な判断には立ちません。

思えばイエス・キリストはその時代に罪人として定められた人々のために十字架で処刑され その後に復活されました。この出来事のなかで「毒麦」として定められた人々も神の恵みの養いを授かったはずです。
 

言語や習慣の異なる人々がお互いを「毒麦」呼ばわりして排除しようとする現代 神の前の自己吟味に留まらず隣人を受け入れる第一歩として自らが毒麦であるとの立場を選ぶのも悪くはありません。

自らが毒麦と思い込んだ筈の難民や無国籍の方々 また家族のなかで「はみだしもの」として腫れもののように見なしている者との関係に神の真理が宿っているとの可能性は大いにあり得ます。それはほかならぬ「いのちの可能性」です。

偏見に基づく「選別と排除」を超えて イエス・キリストが毒麦の「毒」を清めてくださります。

だからこそわたしたちは「清められた者」として 社会の歪みに根をおろす差別やいのちへの冒涜に抵抗できるのです。

酷暑はまだまだ続きますが みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますように。主なる神がすべてのいのちを祝福されています。その確信をともに分かちあいましょう。

2025年8月31日日曜日

2025年9月7日(日) 礼拝 予定

       ―聖霊降臨節第14主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「人生の実りに問われる生き方」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章24~30節
(新約25頁)
讃美=21-421(日本語),21-434(320),21-26


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聖霊降臨節第13主日礼拝を献げることができました

おかげさまで8月31日 聖霊降臨節第13主日礼拝を献げることができました。人の子イエスが血のつながる家族の訪問を受けて群衆と弟子を示しながら「わたしの母とは誰か 兄弟とは誰か」と返答し 弟子を示して「ここにわたしの母 わたしの兄弟がいる」と返答する場面が本日の箇所でした。
 

現代のガザ地区侵攻問題にも重なりますが『旧約聖書』の『ヨシュア記』や『士師記』には「聖絶」として解釈される場面があります。その箇所だけ切り抜けば特定の民族に対するジェノサイドが神の命令により正当化されるという理解。それが「聖絶」と呼ばれます。

しかし現代ではいかなる理由があろうとも戦闘員・民間人を問わず絶滅戦争や虐殺が赦されるなどという理屈がまかり通ってよいはずがありません。それでは『旧約聖書』でそのような愚行を牽制するしくみがあるとするならばそれは何でしょうか。

端的にいえばそのしくみとはイスラエルの民以外のアンモン人であれペリシテ人であれ「神の似姿」として創造され、かつすべての人々がエバとアダムの末裔であり血縁関係があるとの理解に根ざします。則ちいかなる敵対関係にあろうとも特定の民族を絶滅に追いやる行為は「カインとアベル」の物語にあるごとく「兄弟殺し」の謗りを免れないところにそのしくみがあります。日本でも戦国武将同士の婚姻関係は対立する武将相互の和睦を意味しました。

しかしこのような仕方での和解とは血縁関係に連なる者に何らかの痛みを強いずにはおれません。人の子イエスが血のつながる家族を前にして敢えて群衆や弟子をして「わたしの母 わたしの兄弟」と称したのには 係累による強いられた苦しみの解放とともに 孤独に苛まれる人々へ新しい家族のモデルを提起してもいます。

『創世記』で示された家族の最小単位とは血族による「部族」や「一族」ではなく血縁のない「夫婦」となります。そのつながりを踏まえた上で ミケランジェロの「ピエタ」にあるような母と子の絆に初めていたります。
 

家族同士のDVや親による子殺しという残酷な報道が相次ぐなか イエス・キリストの示す交わりへ依存することにより 主にある平安をとりもどすという道が拓けるように思います。課題を独りで背負い思い詰める前に まず教会やその付帯施設の門を叩いていただきたいと願います。あなたは決して独りではありません。

9月が始まります。みなさまには酷暑の疲れが癒されますよう祈ります。

2025年8月24日日曜日

2025年8月31日(日) 礼拝 予定

      ―聖霊降臨節第13主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の家族に連なる喜び」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12 章46~50 節
(新約23頁)
讃美=90,21-566(536),21-24


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聖霊降臨節第12主日礼拝を迎えられました

おかげさまで聖霊降臨節第12主日礼拝を迎えられました。説教タイトルは人の子イエスの語った教えでもある「蛇のように賢く 鳩のように素直であれ」との箇所でした。
 

初代教会への大弾圧を視野に入れながら人の子イエスは「蛇のように賢く 鳩のように素直であれ」と語ります。初代教会ではまずは「救い主はイエスとして来り賜う」との立場から、救い主の訪れを認めない古代ユダヤ教から石を投げられ排除を伴う弾圧を受けました。さらにローマ帝国からは皇帝に対する礼拝を拒否した多くの信徒が見せもののように暴力による弾圧を受けました。

しかしそのような迫害下でもキリスト教徒は恐れず愛のわざを神の愛の証しとして恐れず 隣人を愛し続けました。
 

現代のわたしたちはとかく「家庭の融和」という観点から争いを遠ざけようとします。しかしヘイト発言やレイシズムによって苦しむ人々との連帯を教会が大切にしてきたのも確かな事実です。

「蛇のような賢さ」とはキリストのもとにある「鳩のような素直さ」と不可分です。この賢さと素直さこそ キリストが語り賜うたわたしたちのあり方であり賜物です。神の愛による世の統治こそ わたしたちの愛のわざの目標であり キリストがわたしたちに約束された福音(よろこびの報せ)です。
 

まだまだ酷暑が続きますが みなさまの新しい一週間に主なる神の平和がありますよう祈ります。

2025年8月17日日曜日

2025年8月24日(日) 礼拝 予定

      ―聖霊降臨節第12主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「蛇のように賢く鳩のように素直であれ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10 章16~23 節
(新約18頁)
讃美=21-494(228),21-540(403),21-24


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聖霊降臨節第11主日礼拝をお献げできました

 みなさまのおかげで本日は聖霊降臨節第11主日礼拝をお献げできました。『マタイによる福音書』10章1〜15節。人の子イエスが十二弟子を派遣するとの箇所をテキストとしました。
 

 人の子イエスが派遣した十二弟子は、漁師ペトロとアンデレ、徴税人マタイ、熱心党のシモンらだけでなく「裏切者」とのラベルを貼られるイスカリオテのユダも数えられるという実に多様性に満ちた群れでした。この人々はまさしく人としてのイエスの生涯につき従いながらもその苦難の極みにはイエスのもとから離れていきます。イスカリオテのユダはその象徴です。

 しかしわたしたちはこの群れのなかに使徒パウロの姿を見ません。パウロは元来古代ユダヤ教の律法学者として初代教会に集うキリスト教徒を迫害しており その姿が物語に登場するのは『使徒言行録』に入ってからです。
 

 確かにイスカリオテのユダは人の子イエスを祭司長たちに引き渡しましたが ユダが殺人を犯したとはどこにも記述されません。他方でパウロは律法学者サウロと称していたころには数多のキリスト教徒を捕らえその殺害に賛成していたと言われます。現代人からすればイスカリオテのユダよりもパウロのほうが罪深いように思われます。

 実際のところイスカリオテのユダを加えた十二弟子はイエス・キリストの苦難と死から遠ざかりました。他方で律法学者サウロは復活したイエス・キリストの声を聞き生涯の大転換を成し遂げ 異邦人にイエス・キリストの福音を宣べ伝えます。

 人の子イエスに従いきれなかった十二弟子は その弱さとともに各々の多様性を活かされて宣教の旅に出かけました。他方で史実上の存在としてのイエスとは面識のないパウロは人の子に従った直接の弟子からその生きざまと十字架での死 そして復活の出来事に示された神の愛を伝えるべく地中海世界を奔走しました。この二つの潮流がひとつになってわたしたちに「主なる神の平安」を注ぎます。
 

 戦後80年目の八月十五日を迎えました。わたしたちのまわりにはさまざまな断絶と対立と格差にあふれています。異なる民の交わりにある豊かな多様性でさえ否定されかねない現状があります。わたしたちはあらゆる軍備拡大とヘイト運動から距離をおき 主なる神に祝福された交わりを耕してまいります。「あなたがたに平和があるように」との挨拶をイエス・キリストは弟子に教えられました。その挨拶を交わすための祈りを献げる一週間を始めたく存じます。

 みなさまに主なる神の祝福がますます豊かに臨みますよう祈ります。

2025年8月10日日曜日

2025年8月17日(日) 礼拝 予定

     ―聖霊降臨節第11主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「十二弟子が旅立つとき」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10章1~15節
(新約17頁)
讃美=21-466(404),21-529(333),21-24


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聖霊降臨節第10主日礼拝を献げることができました

みなさまのお祈りのおかげで聖霊降臨節第10主日礼拝を献げることができました。礼拝のテキストは『マタイによる福音書』9章9〜13節、当時は賎業であった徴税人マタイ(福音書の書き手集団の人々とは異なります)を始め「大勢の罪人」も多く集まった席で食卓を囲んだ人の子イエスによる「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」との言葉のもと交わりを育む場面でした。
 

 『新約聖書』の物語の文脈で徴税人が人々から嫌われていたのは察せるものの食卓に集まった「大勢の罪人」各々の姿がわたしたちには今ひとつ曖昧です。

しかしながら福音書の世界では「法に触れた」人々だけでなく不治の病やこころの病による障がいを身に帯びた人々をも「罪人」として定められていました。このような人々が一般の交わりから遠ざけられていた事情を踏まえると イエス・キリストを囲む交わりが一般には「異形の者の集い」の体であったと偲ぶこともできます。
 

戦争を敗戦という仕方で終えたわたしたちの日常には絶えずその影がつきまとってきました。サンフランシスコ講和条約により恩給の対象から外され「傷痍軍人」としてアコーディオンの物悲しげな旋律とともに白衣を着て生活支援を訴えていた人々・核兵器により重度の火傷や放射線障がいのなかで退けられていった人々・戦後に「特攻崩れ」として荒んでいった人々・戦災孤児としてなりふり構わず日々をしのがなくてはならなかったこどもたち。決して「昭和」には細かな考証による映像化もドラマ化もできなかった声なき叫びは実のところ高度経済成長期にも響いて止みませんでした。

徴税人マタイの家でイエス・キリストとともに食卓を囲んだ人々の姿を わたしたちは幼い日の記憶に重ねます。「新しい戦前」と「終わらぬ戦後」の重なりを思い起こします。

しかしこの「異形の者の集いと交わり」のなかにこそ神の愛による統治、すなわち神の国の姿のかけらが散りばめられています。昨年の「日本原水爆団体協議会」のノーベル平和賞受賞は次の点で画期的でした。すなわち世界で活躍の目立った歴史的な偉業を達成した人物でも 高名な篤志家でもなく 戦後79年間にわたり黙々と平和のためにあゆんできた原水爆の被害者のあゆみが全世界に発信されたのです。その結果 これまで原子爆弾の実戦使用を正当化してきたアメリカ合衆国でさえ若い世代には疑問と新たな問いの提起にさえなりました。
 
わたしたちが目を背けてきたり 公言できなかった日常のなかにこそ「神の国の断片」という希望が散りばめられています。そのかけらを集めてともにするのもまた礼拝の尊さにつながります。

酷暑と豪雨に苦しむこのごろの夏ですが だからこそそのような「神の国のかけら」を持ち寄って 愛の証しを立てていきたいと願います。

自然災害の危機が叫ばれる昨今だからこそ わたしたちはイエス・キリストを信頼する平安を大切な方々と分かちあいましょう。

2025年8月3日日曜日

2025年8月10日(日) 礼拝 予定

    ―聖霊降臨節第10主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「病の人を招く主イエス・キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』9章9~13節
(新約15頁)
讃美=21-371,21-402(502),21-24(539)


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聖霊降臨節第9主日礼拝 平和聖日礼拝を献げることができました

みなさまのお祈りのおかげで聖霊降臨節第9主日礼拝 平和聖日礼拝を献げることができました。満洲事変以来15年にも及んだアジア・太平洋戦争の敗北を大日本帝国が認めてから80年を数える今年です。
 

テキストは『マタイによる福音書』8章5節から13節。病に苦しむ僕(しもべ)を案じたローマ帝国の百人隊長(小隊〜中隊を指揮する下級将校)の願いを聞き入れたイエス・キリストがその僕を癒やすという物語の解き明かしとなりました。
 

戦後80年の今となりますと 戦争体験者といえども戦火の嵐をくぐり抜けた「こどもたち」の世代が中心となり 従軍経験者の数は極端に少なくなります。実体験のない戦争論はいきおい安っぽいロマン主義的な物語をもたらし「もしもハイオクタンの燃料があれば日本の戦闘機は米国に勝っていた」というような仮想戦記をもたらしがちです。しかし実際にはそのような燃料の兵站が絶たれたからこそ敗戦となった現実を見ずに再軍備や核武装を語る政治家が後を絶ちません。

むしろ人の子イエスは本来ならば敵となるはずのローマ軍の下級将校の願いを聞き入れてその僕の病を癒しました。イエス・キリストはこの時点で「愛敵の教え」を自ら証ししています。

ひょっとしたら兵卒にもならかった一軍属の僕に向けられた百人隊長の願いは 負傷し手に負えなくなった兵士に安楽死を強要した日独ソ聯・連合軍の将校とは態度が全く異なります。慢性的な紛争が続くなか、部下を想うこの祈りをイエス・キリストは受け入れました。

パレスチナ、ウクライナ、インドシナ半島と銃声のもと民間の老若男女・こどもたちが犠牲になる今こそ、イエス・キリストの垣根を越えた神の愛に根ざす働きが求められているのではないでしょうか。現在のところ日本には多くの国から人々がお越しになり 医療・福祉・小売店の現場でお働きになっています。平均年齢50歳と言われる逆三角形の人口を筒形のかたちにするためにもお働きになる方々を悪しざまに扱ってよいはずがありません。

わたしたちは戦争の被害者であるとともに加害者でもあります。加害者としての責任を自覚しながらも海外からの旅人を受け入れたいと願います。差別は排除につながります。しかし区別は本来なら相手への理解に基づいた配慮へとつながります。そのような態度をキリストに従うなかで体得し 明日への希望の光を灯したいと願います。

2025年7月27日日曜日

2025年8月3日(日) 礼拝 予定

    ―聖霊降臨節第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「平和を実現するイエス・キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』8 章5~13節
(新約13頁)
讃美=21-561(420),531,
「主の食卓を囲み」(讃美ファイル3),21-24(539).

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聖霊降臨節第8主日礼拝をお献げできました

みなさまのお祈りのおかげで 聖霊降臨節第8主日礼拝をお献げできました。2025年7月最後の聖日礼拝となります。
 

本日の礼拝では「あなたがたの土台はどこにあるのか」とのタイトルで 『聖書』箇所を『マタイによる福音書』第7章21〜29節とし、祈りのあり方について分かちあいました。

「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』というであろう」との言葉がイエス・キリストの声として記されます。しかしこの声には「あなたたちのことは全く知らない」との言葉が向けられます。なぜでしょうか。

それはこの声が自らの業績を誇り承認願望を激しく満たそうとする欲求にあふれているからだと本日は思わされました。イエス・キリストはわたしたちを砕き 絶えず新たにしはしても『白雪姫』の魔法の鏡のようなお方ではありません。むしろ自らのいたらなさや弱さに嘆く人々の声なき声をお聞き届けになります。
 

世の巷には誰もが飛びつくような甘い言葉にあふれる時もあります。選挙の際の「公約」やキャッチフレーズに満ちたコマーシャルの大音響にわたしたちのこころは時として惑わされ麻痺し削られます。

だからこそ聖日礼拝には『聖書』の言葉から響く静かな声を傾聴し キリストに深く根をおろした判断力を養いたいと願います。
 

蝉時雨続く教会の祈り。新しい週・新たな月も みなさまの疲れがキリストに癒され 神の愛によって励まされますように。酷暑が続きます。ともに主の平安を祈ります。

2025年7月20日日曜日

聖霊降臨節第7主日礼拝を献げることができました

蝉時雨響き渡る今朝 わたしたちはみなさまのお祈りのおかげで聖霊降臨節第7主日礼拝を献げることができました。
 

聖日礼拝には新来会者が1名お越しくださったほか 礼拝後には「たけしろみんなの食堂」がありました。

聖日礼拝の説教のテキストは『マタイによる福音書』7章7〜12節。「求めなさい。そうすれば、与えられる」を始めとした箇所。「だから、人にしたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と終わる本日の聖句。それは名もなき群衆にナザレのイエスが語った『律法(トーラー)』、『預言者(ネビイーム)』という書物。それはその時代のユダヤ教で繰り返し味わわれていた「正典」でした。だからこそ文字の読めない人でも話を聴き、神の愛のわざに励む喜びを分かち合えるとの希望を授けられました。
 

国政選挙の一日。他者を激しく非難し排除しようとの動きが社会で広まる中だからこそ 異なる民のあいだで 互いに支えあい奉仕する愛情を深めてまいりましょう。キリストが説いたのはまさしく仕えあう奉仕の共同体でした。その交わりは確かに神の愛の統治である「神の国」を先取りしていました。人は変わり世は移りますが主イエス・キリストはその御旨を成し遂げられます。

そのあゆみにどれほど多くの困難を伴おうとも キリストはその交わりの中心にいてくださいます。そこには誰かを切り捨て 見捨てるわざはいっさいありません。
 

本日も猛暑の一日です。存分に身体を養い 新しい一週間を主なる神に委ねてまいりましょう。

イエス・キリストの祝福がみなさまとともにますます豊かに臨みますように祈ります。

2025年7月27日(日) 礼拝 予定

    ―聖霊降臨節第8主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「あなたがたの土台はどこにあるのか」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』7 章21~29 節
(新約12頁)

讃美=21-514(449),21-458(270),Ⅱ-171.

説教要旨・動画、ライブ中継については、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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2025年7月13日日曜日

2025年7月20日(日) 礼拝 予定

    ―聖霊降臨節 第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

 
説教=「求めは分かちあいにより満たされる」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』7 章 7~12 節
(新約11頁)

讃美=217,21-459(354),Ⅱ-171. 

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聖霊降臨節第6主日礼拝を献げられました

おかげさまで聖霊降臨節第6主日礼拝を献げられました。朝から日差しが強く 地球の温暖化か何かがあるのかしらぬと汗を拭いながら感じた朝でした。
 

しかしこのような暑さも人間社会が排出するCO2だけが原因だけではなさそうです。今から200年ほど前には世界的には極々わずかな氷河期にあったと申しますし お子さんの大好きな中世代のジュラ期の気温は40度を超えていたという説もあります。いずれにせよ人智を超えた天地の創造主に委ねなければ分からない事象は今でも山ほどあります。そのような地質学的な時間では人の命は一瞬のきらめきのようでもありますが だからこそかけがえのない大切な光を放っています。

国政選挙が近づくに連れて街宣車を始めとした選挙活動が盛んになります。争点は「給付金」「消費税」になりそうですが わかりやすい反面 大切な医療・福祉政策や移民の方々への人道的な向きあい方が実に雑に扱われているようでもあります。教会では週に一度は問われる「すべての人に開かれた」というありかたが世にあってはいかに困難か思い知らされます。しかしわたしたちは勇気を出さねばなりません。「キリストはすでに世に勝っている」からです。その思いを常に胸に秘めて世の道筋を見極めたく願います。
 

昨日7月12日(土)には  こひつじこども園で「お楽しみ会」が開催されて 園児さんや保護者の方々 卒園児の方々もたくさんお見えになりました。備えを担った職員の方々の疲れが十分に癒やされますようにと祈ります。

新しい一週間が始まります。集中豪雨などの自然災害への注意を怠らないようにしつつも みなさまが主なる神の祝福のなかで癒され 励まされますよう祈ります。

2025年7月6日日曜日

2025年7月13日(日) 礼拝 予定

   ―聖霊降臨節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「心、神の愛の力にあふれて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』6 章24~34 節
(新約10頁)

讃美=21-342(183),461,Ⅱ-171.

説教要旨・動画、ライブ中継については、
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礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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聖霊降臨節第5主日礼拝を献げることができました

おかげさまで聖霊降臨節第5主日礼拝を献げることができました。朝から猛暑のなか こども園関係者、放課後デイサービス関係者や教会関係者に整えてくださった礼拝堂には涼やかな風が吹き 聖書のメッセージと讃美を分かちあう大切なときを授かりました。
 

メッセージは『マタイによる福音書』での「誓ってはならない」との人の子イエスの教えを通して『旧約聖書』の士師エフタの誓いのもたらした悲劇に人が自ら立てた誓いの限界を考えました。
 

エフタはイスラエルの民のために異民族のアンモン人との戦いを指揮して勝利を収めますが 戦の前に神に誓った「もし勝利を収めるなら帰途家の扉から出てきた者を生け贄として献げます」との誓いを立ててしまいます。アンモン人との戦いに勝利したイスラエルの民でしたがエフタは凱旋を祝い家から出迎えた一人娘を「取り返しのつかないことをした」と悲しみながらも犠牲にします。イスラエルの勝利は民には喜びでしたがエフタには深い悲しみとして刻まれました。勝利に酔いしれるイスラエルの民への深い問いかけがなされます。

わたしたちは誓いを立てるにしても「YESにはYES 、NOにはNO」と答えるにしても絶えず不安と目先の結果に苛まれる愚か者です。だからこそ神は自ら人に対する誓いをお立てになりました。それは『創世記』にあるように「死んではならない」との約束です。この約束はイエス・キリストの復活と使徒たちの宣教活動に実現かつ発展してまいります。

『旧約聖書』に彫り込まれた人の悲しみがイエス・キリストを通して明らかになった神の約束の実現により癒されるという物語。いかなる時にもわたしたちとともにあるいのちの希望として輝いています。
 

礼拝後には「教会の活動を考える会・伝道委員会」を行いました。牧師はその後 日本基督教団いずみ教会で行われた牧師就任式に出席しました。

七月が始まりました。暑い日々が続きます。夏の疲れを主なる神が癒し みなさまの新しい一週間がますます祝福されますように祈ります。

2025年6月29日日曜日

2025年7月6日(日) 礼拝 予定

   ―聖霊降臨節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「神の言葉に打ち砕かれて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章33~37節
(新約8頁)

讃美=21-436(515),522,Ⅱ-171.


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

聖霊降臨節第4主日礼拝を献げることができました

おかげさまで6月最後の聖日礼拝である聖霊降臨節第4主日礼拝を献げることができました。近畿地方も梅雨明け宣言が出され夏空の広がる朝を迎えました。
 

本日の『聖書』は『マタイによる福音書』5章13〜16節の「あなたがたは地の塩・世の光」だとの人の子イエスの「山上の垂訓」と呼ばれる教え。『新約聖書』の生活文脈で呼ばれる「塩」とはわたしたちの用いる「食卓塩」というより岩場から掘り出した岩塩に近いもので、塩化ナトリウムのほかにたくさんのミネラルが含まれています。だからこそ「塩気のなくなった塩」という言葉をイエスは語ったのではないでしょうか。

現代のような精製方法のなかった時代には塩はまことに貴重。健康の維持にも欠かせませんでしたがその恩恵にあずかる人々は決して多くはなかったはずです。日本でも1997年までは専売制でした。良質な岩塩は鉱山奴隷の犠牲のもと多くはローマ帝国に奪われていったことでしょう。だからこそ「よき塩」は貴重でした。

また「世の光」に重ねられる「ともしび」もまた決して煌々と室内を照らすのではなく皿に入れた植物油に糸の芯を垂らし灯された実に小さな光でした。だからこそ燭台の上に置いてその小さな灯りを最大限に用いる工夫がなされました。隙間風が吹けばフッと消えてしまうような炎です。

『マタイによる福音書』6章22節でイエスは「からだのともしびは目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい」と語ります。神への讃美の喜びに溢れるとき 世にあって苦しみ悲しむ人々は喜び輝きます。キリストにつながる人とは暮らしのなかでさまざまな弱さや苦しみ、そして痛みを抱えている人々です。人の子イエスはそのような人々との交わりを積極的に育まれました。老若を問わずそのような交わりに触れて ともに苦しみを分かちあいたいと願います。2025年も残すところ半年となりました。みなさまの新しい一週間に主なる神のますますの祝福を祈ります。

2025年6月22日日曜日

2025年6月29日(日) 礼拝 予定

  ―聖霊降臨節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「掘り起こされた塩、闇を照らすともしび」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章13~16節
(新約6頁)

讃美=21-505(353),21-504(285),21-26.


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

聖霊降臨節第3主日礼拝を献げることができました

おかげさまで梅雨の中休みの猛暑日でも守られて 聖霊降臨節第3主日礼拝を献げることができました。
 

『聖書』は『使徒言行録』17章30〜34節のテキストをもとに ギリシアの都市アテネを訪ねた使徒パウロが アレオパゴスの広場でメッセージを語ったのにも拘わらず 死者の復活に話が及ぶと集う人々の殆どには嘲笑や無理解を招いたとの話で始めました。

かつて使徒パウロのアテネでの宣教は パウロ主義に批判的な現代の研究者や牧会者には「失敗した」または「うまくいかなかった」と評される場合が目立ちました。しかし『使徒言行録』の書き手集団はこうした現代的な成果主義に通じる評価には関心を寄せません。むしろ「アレオパゴスの議員ディオニシオ」「女性ダマリス」「その他の人々」がパウロのメッセージに触れて入信した者がいたと記します。

思えば古代ギリシアの都市アテネは城壁に囲まれた都市(ポリス)のなかで市民による話し合いにより政治が行われる民主制で運営されていたとされます。しかしその民主制とは一切の労働を人格を認められず売買された奴隷に委ねて成立しており 現代の民主主義とは全く異なります。

イエス・キリストの教えに触れて受け入れた人々はそのような身分制度から解放された世界へと羽ばたいていきました。キリストの祝福はすべての人々に等しく臨むからです。支配する側もされる側もそのような抑圧による関わりから解放されてあゆむにいたります。

期せずしてわたしたちもまた「分かる」事柄はよいことで「分からない」案件は退けるべき事柄として受けとめがちです。しかし人生のすべてが説明され 分かりきった気になるのも浅薄な話です。

「人生曰く不可解」だからこそ老若を問わず胸がときめくのであり そのときめきの果てには死を乗り越える「復活」の出来事があると『聖書』は語ります。むしろ「分かりきった態度」に内在する傲慢さをイエス・キリストは誡めるのではないでしょうか。

礼拝での「執り成しの祈り」では沖縄慰霊の日や世界のあちこちで起きている紛争や戦争には勝者がいない旨を踏まえて世界の平和のために祈りを献げました。
 

礼拝後は「たけしろみんなの食堂」と(福)地球の園 定例評議員会を行いました。多くの方々に教会とこひつじこども園・放課後等デイサービスこひつじが支えられていると実感し感謝の念にあふれた一日でした。みなさまに主なる神の祝福がますます豊かに臨みますよう祈ります。

2025年6月15日日曜日

2025年6月22日(日) 礼拝 予定

  ―聖霊降臨節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神には決して『無駄』はない」
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』17章30~34節
(新約248頁)

讃美=21-405(225),21-516,21-26.


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

聖霊降臨節第2主日礼拝を献げることができました

おかげさまで前日の雨から一転した天候のもと聖霊降臨節第2主日礼拝を献げることができました。
 

聖書は『マタイによる福音書』11章25〜30節のテキストをもとに 生きづらさを見捨てないイエス・キリストのメッセージ「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」をともに味わいました。
 

近年 日本人の10〜30代の死因が脳疾患・心疾患・悪性新生物などによる疾病を超えて自死が一位となっています。「生きづらさ」とまとめるのは簡単ですが それにしてはあまりにも疲弊し人生に絶望する方々が多すぎます。

こころの病はその人の気質や生きる態度という個人に完結するものではなく関係性に障りをきたした場合 その危険水域をつらさや心痛が超えたときに生じると言われます。例えば過度の飲酒を止めたところで当事者を囲む社会のあり方を新たに構築し直さなくては問題の解決にはいたりません。

他の病気とは異なり 癌とこころの病は医学的にも「完治」とは表現しません。あくまでも症状が抑えられ 進行が止まっているとの意味で「寛解」と表現されます。この理解がないと当事者の生きづらさに共感し支援するわざは困難です。

イエス・キリストはその人のもつ重圧を魔法のように消し去るのではなく「わたしの軛(くびき)を担いなさい」と説きます。軛とはもともとは複数の牛や馬が離れていかないように首や肩をロックする枷を意味します。そのような枷によってわたしたちもキリストと繋がっているというのです。

この枷はわたしたちが重荷に耐えかねて崖から落ちてしまったり暴走したりする態度を押しとどめます。いわば「いのちの絆」としての交わりを育みます。
 

心労が溜まりやすい候となりました。どうか雨水を受けてますます鮮やかに咲く紫陽花のような落ち着きとみずみずしさに輝く一週間となりますように。みなさまに主なる神の励ましと聖霊によるますますの祝福を祈ります。そして争いに満ちた世界に一日も早く神の平和が訪れますように。