冬季のクライマックスたる大寒波の終焉を告げるかのように、教会施設を場とした「たけしろみんなの食堂」が行われました。「こども食堂」に絞らず誰もが関われるようにとの気持ちで始まった活動も、今月で満一年を迎えました。スタッフの祈りに始まるこの活動に神様の祝福がますます臨みますよう祈ります。
さて本日の聖日礼拝では、人の子イエスがエルサレムの神殿の献金箱にレプトン銅貨二枚を献げた独り身の貧しい女性と、ありあまる財産から献金した金持ちたちを較べて、弟子たちに貧しい女性の献金こそ「誰よりもたくさん献げた」と示す箇所をテキストとしました。なるほどと思う反面、牧師は長らくこの箇所に疑問を抱いていました。それは「どちらが誠実か」という問いに留まるかぎり、「富める者」と「貧しい女性」との分断は決して解決されないだろうに、との問いでした。
この箇所の解き明かしは前後の文脈に注意しなくてはと痛切に感じた箇所でした。この箇所を包むのは、イエスによる「神の愛による統治」の告知です。この告知に立てば、悲しみと嘆き・争いに満ちた人の世は、必ず神の愛に支配されて、すべての人々が互いに支えあい、喜びにあふれるようになり、金持ちは貧しい女性を助け、女性は金持ちに金銭に左右されない神の祝福のよろこびを分かちあうとの理解も可能です。
「そして御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから(世の)終わりが来る」(『マタイによる福音書』24章14節)とあるように、神の愛の証しが世界に全うされて初めて、世に終わりが来るという、イエス固有のリアリズムが教会には委託されています。
寒さの中で震えながらも隣人のために尽くす路上生活者の方々がいます。それならばなおのこと、わたしたちは決して裕福ではないけれど、豊かさだけでなく貧しさをも分かちあい、イエス・キリストが示された「神の愛による統治」を待ちのぞみ、実現いたしたく存じます。
みなさまの新しい一週間に、神様の支えと励ましがますます臨みますよう祈ります。キリストがともにおられますように。