礼拝では『ヨハネによる福音書』にある復活後のイエス・キリストと弟子ペトロとの対話の中で三度繰り返される「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛するか」との問いかけの際に用いられるギリシア語の「愛する」が二度までは神の愛を示す「アガパオー」、三度目めが人の愛を示す「フィレオー」であるのに対してペトロの対応が終始一貫し「フィレオー」となっている特徴を指して、「イエスと弟子のちぐはぐな対話」とは見なしませんでした。むしろ『ヨハネによる福音書』の基調である「神は御子を賜るほどにこの世を愛してくださった」の具体的な展開として受けとめ、破れに満ちた弟子を神の愛がつつんでいるとの理解に立ちました。
実際に世の中にはさまざまな破れがあり、その破れの中で今なお多くの人々が苦しみに置かれています。泉北ニュータウンからさほど遠くない大阪市西成区あいりん地区再開発計画でもある「西成特区構想」の中で貧困ビジネスの闇を明らかにしようとした矢島祥子内科医は34歳の若さでその闇に飲まれ落命したと言われています。しかし矢島医師は日本基督教団高崎南教会の教会員でもあったことを考えますと、自らのいのちと引き換えに世の闇に光を照らそうとされた方としても映ります。
もちろん矢島医師とてそのような残酷な最期を遂げようとは自ら望んではいなかったことでしょう。しかし矢島医師が目を注ぎ続けたのは路上に横たわるホームレスの方々のみならず「なぜそうならなくてはならないのか」という社会構造でもあったのは確かです。
わたしたちはさまざまな愛憎の中で時を過ごしています。ただその気持ちが個人に属するとともに交わりの課題として知られた時に、わたしたちの破れや欠けは新しい伸び代としての輝きを放ち始めるように思います。
ひと握りのおむすびやひとかけの毛布が紡ぐ路上に暮らさざるを得ない方々とのつながりに神の愛が示されるならば、わたしたちの身近な方々とのつながりにもその糸がつながれているように思います。招きの糸あればこそ、わたしたちはキリストを通して多様な交わりを育みうると感じた礼拝でした。礼拝後には教会学校春の集いが行われました。雨天の中にきらめく麦の穂が新たな時の訪れを告げています。みなさまの新しい一週間に主なる神の祝福を祈ります。