おかげさまで復活節第5主日礼拝を献げることができました。ありがとうございました。
本日の『ヨハネによる福音書』の箇所では「世はあなたがたを憎むだろう」とのイエスの言葉が繰り返され、迫害の予告が行われます。パウロの宣教以前から教会の課題となったのは当初は古代ユダヤ教から迫害、そして紀元64年ごろのローマ帝国皇帝ネロによる迫害があります。本日の福音書が成立した段階で、すでにこの世の成功や幸せを求めてのキリスト教へのアプローチは困難なのは誰の目にも明らかでした。コロッセウムで飢えた猛獣の犠牲になるキリスト者を描いた絵画は今なお教会への問いかけとしてその力を保っています。
この迫害としばしば対比されるのが日本でのキリシタン迫害です。遠藤周作の『沈黙』やその映画化を試みた映画監督のベルトリッチは『ザ・サイレンス』を通して長崎奉行によるキリシタン迫害をリアルに描き、時には目を背けたくなるほどの描写をわたしたちに突きつけます。しかしそのような事実はあったにせよ、そればかりが禁制期のキリスト教と徳川幕府との関わりだったのでしょうか。
本日は以前もご紹介したジョバンニ・バッティスタ・シドッティ宣教師をご紹介します。徳川幕府中期に九州に上陸したシドッティ宣教師は役人に身柄を拘束されて江戸まで護送されます。シドッティ宣教師の尋問を担当したのが儒学者として知られる新井白石でした。シドッティが主張する復活の教えこそ共有しなかったものの、新井白石は宣教に対するシドッティ宣教師の真摯な姿勢に深く感銘し、最上策としては本国への強制送還、上策としては罪人とせず表向きは幽閉し武家としての位を与えて幕府に仕えさせる、中策としては幽閉、死罪はキリシタンを増やす恐れがあるため下策とし、将軍に上申しました。ただしシドッティ宣教師は武家屋敷に暮らしている折に二名の奉公人に洗礼を授けた事実が露見して地下牢で46歳で没しています。わたしたちが関心を抱くのは受洗した奉公人の行く末です。
神の言葉は国境を越え、生まれながらの身分を超えて拡がっていくというメッセージに震えた奉公人の魂はキリシタン禁制の命をものともしませんでした。
迫害とは現代では消費社会でもレジャーそのものでもなく、自己責任やコストパフォーマンス、タイムパフォーマンスとの言葉に表される効率優先主義に現れているのではないのでしょうか。そこでは「待つ」という姿勢が決定的に欠けています。待つ、とはまだ見ぬ実りを確信する、または待ち人が必ず訪れるとの信頼あって成り立ちます。こちらの期待どおりではなかったとして相手を排除するのは人には赦されてはいません。
ツバメが巣づくりに励む初夏を迎えました。4月29日には「たけしろみんなの食堂」も行われます。ゴールデンウィークにはさまざまな過ごし方がありますが、実りを確信し耕しに励むという道もあります。みなさまの新しい一週間に、主なる神がともにおられますよう祈ります。