2024年5月26日日曜日

2024年6月2日(日) 礼拝 予定

 ―聖霊降臨節第3主日礼拝― 

時間:10時30分~


説教=「キリストはあなたの盾となって」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』3章1~15節
(新約聖書  167 頁).

讃美=  21-155(301),522,21-28(541).

説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

三位一体主日礼拝をお献げすることができました

本格的に初夏の訪れを感じる候となりました。 こひつじこども園・泉北ニュータウン教会の園庭にある大麦も刈り入れられ、『ヨハネによる福音書』の「一粒の麦地に落ちて死ねば」の箇所に一層のリアリティを感じる候となりました。
 

本日の聖書の箇所はナザレのイエスが弟子のフィリポに自らの昇天後に「弁護者を送る」と話すところでした。「弁護者」とは、キリストを通して明らかにされた神の愛の力である聖霊の大切な属性です。聖霊のこの働きによって、弁護を必要とする破れと痛みに満ちたわたしたちは、今なおキリストに支えられています。
 

大阪市西成区あいりん地区、通称「釜ヶ崎」で懸命に医療ボランティアに従事したものの、NGOや医療法人の助成金不正受給問題に向き合い不審死を遂げた故・矢島祥子さんのご遺族とともに、その死を風化させまいと励むご遺族とお時間をご一緒してフライヤー配布に励む時を与えられました。祥子さんの月命日の毎月14日に鶴見橋商店街で行われています。

フライヤー配布の後には祥子さんのご遺体が発見された木津川の千本松渡船場を訪ねました。その場で献げられたのは、捜査に本腰を入れない大阪府警への抗議ではなく、口語訳讃美歌312番『いつくしみふかき』でした。ご家族をまことに不本意な仕方で天に見送ったご兄弟は嘆きの代わりに讃美をともにしようとされました。「これはただごとではないぞ」と「弁護者」たる聖霊の力を深く感じ入りました。

日々のわざの中で、わたしたちは思うように仕事や育児、身の上が進まない時に愚痴をこぼしたり弱音を吐いたりいたします。涙すら流そうといたします。しかし泣き言を言いながらも諦めず事柄にしがみついてさえいれば、不思議にも心配事や悩み事が解きほぐされたり、思わない支えを得たりと、多様な仕方で助けを授かります。その根源に、イエス・キリストを通した聖霊による「弁護のわざ」が隠されてはいないかと振り返って思います。新しい一週間、助け主たる神の愛の力に背中を押されているとの確信に立つわたしたちです。

2024年5月19日日曜日

聖霊降臨日礼拝をお献げすることができました

おかげさまで、2024年度の聖霊降臨日礼拝をお献げすることができました。そぼ降る雨の中でしたが、 こひつじこども園・泉北ニュータウン教会の庭には麦の穂が煌めき、今働く神の愛の力である聖霊のわざを象徴するかのようでした。
 

聖霊降臨節に読まれる『聖書』の箇所は、炎のような舌が弟子たちに留まり各々知らない国の言葉で語り始める様子が絵画にもされて有名です。しかし本日は初代教会にはより深刻であった「食物規定」の問題について触れました。

それは使徒ペトロが幻のなかでユダヤ教の戒律のなかでは穢れているとされたいきものを「屠って食べよ」との神の声とともに見てうろたえるという場面。食をめぐる文化の衝突はデリケートな問題を今でもはらんでいます。
 

本日はその事例として1930年に台湾で起きた「霧社事件」に触れました。日本統治下で起きた血生臭い事件のきっかけとなったのが結婚式の宴席で日本人巡査に差出された一杯の酒。上代以前の日本のように幼子に穀類を噛ませ容器で発酵させる酒が用いられたため「お前たちの唾など飲めるか」と激怒した巡査は花婿を殴打します。そのような混乱から多くのいのちが奪われていくのですが、現代でもそのようなカルチャーギャップが政治的な意味合いを帯びて争いの種となり得ます。

けれどもイエス・キリストはそのような境界線を越える神の愛を説き、証しを立て、十字架での死ののちに復活されました。人の作ったボーダーラインを越えて神の愛は今も働きます。

教会の交わりもそのような力にあふれています。礼拝では聖餐式を執り行い、礼拝後には交わりの会ももたれ、風船を膨らませてこどももおとなも楽しいひとときを過ごしました。ご尽力くださった教会員一人ひとり、お祈りくださったみなさま一人ひとりにこころより感謝申しあげます。

2024年5月26日(日) 礼拝 予定

 三位一体主日礼拝

時間:10時30分~



説教=「神さまはあなたを弁護します」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』14 章 9 ~ 17 節
(新約聖書  196 頁).

讃美=  21-351(66),312,21-27.

説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

2024年5月12日日曜日

父母の日礼拝を執り行いました

本日は五月の風薫るなか父母の日礼拝を執り行いました。礼拝メッセージのご担当は大阪昭和教会からお招きした伊倉睦美さんにお願いいたしました。メッセージは「みんなでしゅわ(手話)っと讃美しよう!」と題し、手話を用いた讃美歌を分かりやすくお伝えくださりました。礼拝堂には「こひつじこども園」や「放課後等デイサービス こひつじ」のこどもたちや保護者の方々がお越しくださり、みな礼拝を「よろこび、たのしむ」時間をともにしました。メッセンジャーの伊倉さんには心より感謝申しあげます。
 

来週の聖日礼拝はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝。教会の誕生日でもありイエス・キリストを通して明らかにされた神の愛が世に広がっていくわざをお祝いする礼拝を迎えます。人の目からすれば時には争いの種にもなり得る文化の異なりが祝福されて乗り越えられ、世界中にキリスト・イエスの教えと生きざま、苦難と十字架、そして復活の喜びが広がってまいります。

戦争や紛争の絶えない現代におきましても、このペンテコステ礼拝は絶えずわたしたちのあり方を問いかけ、神の愛の道へと導いてくれます。みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますように祈ります。

2024年5月19日(日) 礼拝 予定

聖霊降臨節第1主日礼拝

ーペンテコステ礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「世をかけめぐるイエスの愛」
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』10 章 9~16 節
(新約聖書  232  頁).

讃美=  21-475,502,讃美ファイル3(1.2),21-27.

説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

2024年5月5日日曜日

2024年5月12日(日) 父母の日礼拝 予定

――父母の日礼拝――

時間:10時30分~



メッセージ=「みんなでしゅわっと讃美しよう!」
伊倉睦美姉(大阪昭和教会)

聖書=『コロサイの信徒への手紙』3 章16~17 節
(新約聖書  371  頁).

讃美=※こどもさんびかは「改訂」を使用.
こどもさんびか58,「このままのすがたで」,
こどもさんびか132,こどもさんびか25.

説教要旨・動画、ライブ中継については、
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礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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おかげさまで復活節第6主日礼拝を献げることができました

おかげさまで復活節第6主日礼拝を献げることができました。ありがとうございました。
 

本日の『ヨハネによる福音書』の箇所では「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」との言葉にまとまる箇所です。この一連の箇所ではキリストの苦難に弟子は寄り添えずばらばらになりキリスト自らをひとりきりにするとあります。福音書の書き手集団は弟子たちの弱さを殊更に強調しているように思います。しかし同時にわたしたちは福音書そのものが生き残った弟子の口伝承が基にあると知っています。つまり弟子の深い負い目が福音書に先行して深く渦巻いでおり、キリストに対する眼差しと自己への省察が混在しています。わたしたちはこのテキストから本日何を読みとるべきでしょうか。
 

思うにキリストの苦難に寄り添えきれなかった弟子の弱さだけではなく、その弱さをすべて見通した上でイエスが弟子を逃れさせたとの視点です。ペトロやユダの裏切りをすべて見抜き、その上で弟子をすべて「逃れさせた」キリストの愛です。

そう考えますと「よい羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」や「一粒の麦は死ねば豊かな実りを得る」といったよく知られた『聖書』の言葉が、俄然より強く迫ることとなります。
 

とくにコロナ禍以降、わたしたちは社会における人と人との交わりが希薄になっているのを感じます。「リモートワーク」による仕事だけでなく「リモート呑み会」なるものも現れました。しかしモニターのスイッチをオフにした時に残る虚しさを矛先をわたしたちは何に向ければよいのでしょうか。

むしろ青葉いよいよ鮮やかとなり、鳥が囀り、風爽やかな今日のような一日、リモートの接続を遮断して青空を仰ぐなかで祈りを献げ、側からはそれがひとりごとのように思われても恐れずに神に心をひらく時間ではないかと思うのです。

笑顔も悲しみも不安も喜びも、主なる神はすべて祈りに変えてくださいます。ひとりきりになったと思う時にこそ、主なる神はわたしたちのそばにいてくださります。

その平安を忘れずに新しい一週間を過ごしたいと願います。みなさまの日々にイエス・キリストがともにおられますように祈ります。