六月を迎え今年もガクアジサイが教会玄関を飾る候となりました。おかげさまで聖霊降臨節第三主日礼拝を献げることができました。みなさまのお祈りのおかげです。
本日の礼拝では『ヨハネによる福音書』第3章にある「イエスと律法学者ニコデモの対話」を通して、キリスト自らがニコデモの盾となったからこそ、ニコデモは今日の箇所のような人目を忍ぶ夜半にではなく、後に人の子イエスとの出会いを公に言い表わすようになったとのメッセージを分かちあいました。
わたしたちはニコデモのようなイエスとの出会いによって信仰というありかたに導かれますが、それは予想だにしなかった「危機」という三叉路に直面するからです。すなわち、別の道を行くのか、キリストに導かれるまま進むのか、それともキリストなしの道をあゆむのか、といった具合です。日本では一般に「執着」がよろしくなく「放念」がよろしいとされますが、『聖書』ではそのようには記されません。敢えてとことん執着するなかで「キリストにつながる第三の道」が拓かれ、いつの間にか神の恵みに導かれていく場合もあります。その意味では無駄な人生や無駄な時間はどこにもないといえるでしょう。三叉路の裏道とでもいうべき不思議な道がすでに整えられています。
病の床に就いたり、老いの衰えに寂しさを覚えたり、「これでよいのか」と自問するわたしたちですが、そのすべてに「キリストにつながる裏道」が備えられています。その道はいつか神の祝福にあふれ多くの交わりにつながっています。どのような場もどのような時も決して無駄にはなりません。
新しい月、新しい一週間が始まります。キリストにつながる恵みにあふれた一週間を祈ります。