おかげさまで聖霊降臨節第7主日礼拝を献げることができました。本日の『聖書』のテキストは『ヨハネによる福音書』4章46〜54節、人の子イエスがカファルナウムに暮らす役人の願いを聴き入れたという物語です。この役人は「王」に仕えていたと文脈では考えられますので、おそらくはヘロデ・アンティパスに仕えていたと考えられます。
福音書また続編の物語でもある『使徒言行録』には、クリスマス物語にて占星術の博士から「ユダヤ人の王」たることを間接的に否定され、ベツレヘムに暮らす二歳以下の男児を虐殺したヘロデ大王に始めとした「ヘロデ一族」の系譜の振る舞いが描かれます。この一族は『聖書』に現れては洗礼者ヨハネ、イエス・キリスト、その直接・間接の弟子である使徒の宣教活動を邪魔しにかかります。単なる文学として読むならば、『新約聖書』はヘロデ一族の呪いの物語としても味わえます。
しかし「事柄はそのように単純ではない」と語るのもまた福音書の醍醐味です。王の役人の息子が病により死に瀕した際、役人は父親として息子の救済を求めます。「あなたがたはしるしや不思議なわざを見なければ決して信じない」とのイエスに誡められながらも、役人は息子が癒される前に「主よ」と呼びかけます。言わば「見ないで信じる者」の模範としてこの役人は描かれています。
おそらく役人は自ら仕える君主が洗礼者ヨハネに対して行なった仕打ちやイエスの弟子に対する暴挙のみならず、イエス・キリスト自身に対する謀略を百も承知であったことでしょう。自らがダークゾーンに立つからこそ、救いを求めるわたしたちの姿の雛形が描かれているように思えてなりません。
時に現代の教会共同体は犯罪容疑者の家族や反社会組織から脱しながらも法的制裁を受け続ける家族やとりわけこどもたちの痛みに無関心です。『旧約聖書』では親が罪を犯した場合でも子の罪は問われない箇所があるにも拘らず、です。
犯罪の被害者の家族だけでなく加害者の家族もまた底知れぬ苦しみと孤独に苛まれながら放置されるのが実情です。しかしイエス・キリストは、ヘロデ一族に関わる恩讐を顧みず、役人の息子のいのちを癒して救いました。その足跡をわたしたちは無視するわけにはまいりません。
実定法において定められる刑罰とはあくまでもその法律を定めた国民国家の法体系の範囲を超えるものではありません。死刑の是非も含めて、イエス・キリストが役人の息子を癒したとの本日の記事はわたしたちに重い問いかけを投げかけているのではないでしょうか。
「組織の因果が子に報い」との連鎖をイエス・キリストは見事に絶って、役人の家族にあふれるばかりの救いをもたらしました。教会の交わりや関連する事業体にも同じ問いが向けられています。主なる神の愛にますます信頼する態度が今の時代にこそ求められています。授かった神の愛による交わりをますます広めていく姿勢を身近なところから広めてまいりましょう。
礼拝後には「たけしろみんなの食堂」の奉仕がありました。ご奉仕を担われた方々に衷心より感謝申しあげます。
みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますように祈ります。