2024年8月11日日曜日

聖霊降臨節第13主日礼拝を献げることができました

おかげさまで聖霊降臨節第13主日礼拝を献げることができました。過ぎにし週には広島・長崎の原爆忌とならび、宮崎県沖日向灘を震源とした地震が起き「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」が出されて何とも落ち着かないなかで聖日礼拝を迎えました。それだけに主なる神の賜る平和のありがたさをことのほか感じる一日ともなりました。 
   
さて本日の『聖書』のテキストでは、人の子イエスの教えによって群衆が互いに対立するなか、一部の古代ユダヤ教の指導者が苛立ちを覚える様子が記されます。しかしかつてイエスと語らった指導者層のひとりである人物ニコデモが、あくまでもイエスの言動の正当性を訴える様子を物語の書き手は描きます。憎しみの同調圧力に屈しないニコデモのふるまいは凛としています。憎悪と排除に根ざす集団は容易に解体・分裂する一方で、神の愛の体現者であるイエス・キリストに根ざす交わりの強さをニコデモは証ししてもいます。
 

原爆忌と地震臨時情報を経て、わたしたちは本日あらためて暮らしの根を降ろす場を問われたように思います。マスメディアの報道を受けてさっそく米や飲料水の買い占めが行われている模様です。われ先にと伸ばされる手には冷静さを欠いた他律的な判断が透けて見えます。たとえば能登半島地震の被災者の暮らしの困窮はいずこへかと忘れ去られ、いつのまにかメディアに操られる酩酊の虚しさだけが遺されています。ほんとうにこれでよいのでしょうか。

ニコデモはそのような酩酊に流されなかった人物として描かれているようにも思えます。巨大な自然災害や戦争のなかで、不安や憎しみに駆られた行ないは人命を平然と損なう暴力をもたらします。しかし次の瞬間には互いを告発し責任を転嫁するという疑いと迷いに満ちた孤独な群衆へと変わり果ててしまいます。他者を押しのけようとするあり方から、互いを支えようとするあり方への転換が今こそ求められているように思います。
 

暮らしが危機を迎える「その日・その時」がいつ来るのかは誰にも分かりません。けれどもだからこそ、自らのすべてを神と人とに献げたイエス・キリストとの絆を大事にしながら、備えられる展望に立ちたいと願います。みなさまの新しい一週間が神の平和と知恵に満たされますように祈ります。とくに酷暑のなか、施設で生活されるご高齢の方々、病院やご自宅で療養に励む方々に救い主の癒しと支えがますます備えられますように。