2025年8月10日日曜日

聖霊降臨節第10主日礼拝を献げることができました

みなさまのお祈りのおかげで聖霊降臨節第10主日礼拝を献げることができました。礼拝のテキストは『マタイによる福音書』9章9〜13節、当時は賎業であった徴税人マタイ(福音書の書き手集団の人々とは異なります)を始め「大勢の罪人」も多く集まった席で食卓を囲んだ人の子イエスによる「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」との言葉のもと交わりを育む場面でした。
 

 『新約聖書』の物語の文脈で徴税人が人々から嫌われていたのは察せるものの食卓に集まった「大勢の罪人」各々の姿がわたしたちには今ひとつ曖昧です。

しかしながら福音書の世界では「法に触れた」人々だけでなく不治の病やこころの病による障がいを身に帯びた人々をも「罪人」として定められていました。このような人々が一般の交わりから遠ざけられていた事情を踏まえると イエス・キリストを囲む交わりが一般には「異形の者の集い」の体であったと偲ぶこともできます。
 

戦争を敗戦という仕方で終えたわたしたちの日常には絶えずその影がつきまとってきました。サンフランシスコ講和条約により恩給の対象から外され「傷痍軍人」としてアコーディオンの物悲しげな旋律とともに白衣を着て生活支援を訴えていた人々・核兵器により重度の火傷や放射線障がいのなかで退けられていった人々・戦後に「特攻崩れ」として荒んでいった人々・戦災孤児としてなりふり構わず日々をしのがなくてはならなかったこどもたち。決して「昭和」には細かな考証による映像化もドラマ化もできなかった声なき叫びは実のところ高度経済成長期にも響いて止みませんでした。

徴税人マタイの家でイエス・キリストとともに食卓を囲んだ人々の姿を わたしたちは幼い日の記憶に重ねます。「新しい戦前」と「終わらぬ戦後」の重なりを思い起こします。

しかしこの「異形の者の集いと交わり」のなかにこそ神の愛による統治、すなわち神の国の姿のかけらが散りばめられています。昨年の「日本原水爆団体協議会」のノーベル平和賞受賞は次の点で画期的でした。すなわち世界で活躍の目立った歴史的な偉業を達成した人物でも 高名な篤志家でもなく 戦後79年間にわたり黙々と平和のためにあゆんできた原水爆の被害者のあゆみが全世界に発信されたのです。その結果 これまで原子爆弾の実戦使用を正当化してきたアメリカ合衆国でさえ若い世代には疑問と新たな問いの提起にさえなりました。
 
わたしたちが目を背けてきたり 公言できなかった日常のなかにこそ「神の国の断片」という希望が散りばめられています。そのかけらを集めてともにするのもまた礼拝の尊さにつながります。

酷暑と豪雨に苦しむこのごろの夏ですが だからこそそのような「神の国のかけら」を持ち寄って 愛の証しを立てていきたいと願います。

自然災害の危機が叫ばれる昨今だからこそ わたしたちはイエス・キリストを信頼する平安を大切な方々と分かちあいましょう。