おかげさまで8月31日 聖霊降臨節第13主日礼拝を献げることができました。人の子イエスが血のつながる家族の訪問を受けて群衆と弟子を示しながら「わたしの母とは誰か 兄弟とは誰か」と返答し 弟子を示して「ここにわたしの母 わたしの兄弟がいる」と返答する場面が本日の箇所でした。
現代のガザ地区侵攻問題にも重なりますが『旧約聖書』の『ヨシュア記』や『士師記』には「聖絶」として解釈される場面があります。その箇所だけ切り抜けば特定の民族に対するジェノサイドが神の命令により正当化されるという理解。それが「聖絶」と呼ばれます。
しかし現代ではいかなる理由があろうとも戦闘員・民間人を問わず絶滅戦争や虐殺が赦されるなどという理屈がまかり通ってよいはずがありません。それでは『旧約聖書』でそのような愚行を牽制するしくみがあるとするならばそれは何でしょうか。
端的にいえばそのしくみとはイスラエルの民以外のアンモン人であれペリシテ人であれ「神の似姿」として創造され、かつすべての人々がエバとアダムの末裔であり血縁関係があるとの理解に根ざします。則ちいかなる敵対関係にあろうとも特定の民族を絶滅に追いやる行為は「カインとアベル」の物語にあるごとく「兄弟殺し」の謗りを免れないところにそのしくみがあります。日本でも戦国武将同士の婚姻関係は対立する武将相互の和睦を意味しました。
しかしこのような仕方での和解とは血縁関係に連なる者に何らかの痛みを強いずにはおれません。人の子イエスが血のつながる家族を前にして敢えて群衆や弟子をして「わたしの母 わたしの兄弟」と称したのには 係累による強いられた苦しみの解放とともに 孤独に苛まれる人々へ新しい家族のモデルを提起してもいます。
『創世記』で示された家族の最小単位とは血族による「部族」や「一族」ではなく血縁のない「夫婦」となります。そのつながりを踏まえた上で ミケランジェロの「ピエタ」にあるような母と子の絆に初めていたります。
家族同士のDVや親による子殺しという残酷な報道が相次ぐなか イエス・キリストの示す交わりへ依存することにより 主にある平安をとりもどすという道が拓けるように思います。課題を独りで背負い思い詰める前に まず教会やその付帯施設の門を叩いていただきたいと願います。あなたは決して独りではありません。
9月が始まります。みなさまには酷暑の疲れが癒されますよう祈ります。