みなさまのおかげで本日は聖霊降臨節第11主日礼拝をお献げできました。『マタイによる福音書』10章1〜15節。人の子イエスが十二弟子を派遣するとの箇所をテキストとしました。
人の子イエスが派遣した十二弟子は、漁師ペトロとアンデレ、徴税人マタイ、熱心党のシモンらだけでなく「裏切者」とのラベルを貼られるイスカリオテのユダも数えられるという実に多様性に満ちた群れでした。この人々はまさしく人としてのイエスの生涯につき従いながらもその苦難の極みにはイエスのもとから離れていきます。イスカリオテのユダはその象徴です。
しかしわたしたちはこの群れのなかに使徒パウロの姿を見ません。パウロは元来古代ユダヤ教の律法学者として初代教会に集うキリスト教徒を迫害しており その姿が物語に登場するのは『使徒言行録』に入ってからです。
確かにイスカリオテのユダは人の子イエスを祭司長たちに引き渡しましたが ユダが殺人を犯したとはどこにも記述されません。他方でパウロは律法学者サウロと称していたころには数多のキリスト教徒を捕らえその殺害に賛成していたと言われます。現代人からすればイスカリオテのユダよりもパウロのほうが罪深いように思われます。
実際のところイスカリオテのユダを加えた十二弟子はイエス・キリストの苦難と死から遠ざかりました。他方で律法学者サウロは復活したイエス・キリストの声を聞き生涯の大転換を成し遂げ 異邦人にイエス・キリストの福音を宣べ伝えます。
人の子イエスに従いきれなかった十二弟子は その弱さとともに各々の多様性を活かされて宣教の旅に出かけました。他方で史実上の存在としてのイエスとは面識のないパウロは人の子に従った直接の弟子からその生きざまと十字架での死 そして復活の出来事に示された神の愛を伝えるべく地中海世界を奔走しました。この二つの潮流がひとつになってわたしたちに「主なる神の平安」を注ぎます。
戦後80年目の八月十五日を迎えました。わたしたちのまわりにはさまざまな断絶と対立と格差にあふれています。異なる民の交わりにある豊かな多様性でさえ否定されかねない現状があります。わたしたちはあらゆる軍備拡大とヘイト運動から距離をおき 主なる神に祝福された交わりを耕してまいります。「あなたがたに平和があるように」との挨拶をイエス・キリストは弟子に教えられました。その挨拶を交わすための祈りを献げる一週間を始めたく存じます。
みなさまに主なる神の祝福がますます豊かに臨みますよう祈ります。