2025年10月5日日曜日

聖霊降臨節第18主日礼拝を献げ 世界聖餐日礼拝として聖餐式を執り行ないました

秋雨の降るなかではありましたが おかげさまで聖霊降臨節第18主日礼拝を献げ 世界聖餐日礼拝として聖餐式を執り行ないました。
 

礼拝説教のテキストは『マタイによる福音書』19章13〜23節。『聖書 新共同訳』では37ページとなります。この箇所ではイエスに祝福していただくために連れられてきたこどもたちと人々の姿が描かれる一方で 豊かな暮らしのなかにいた青年が永遠のいのちのありようを問いながらも「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」との答えとともに人の子イエスからはその場では祝福されず悲しみながら立ち去る、という構成となっています。

それぞれの箇所を別個に扱うのも可能ですが イエス・キリストを軸に右手には祝福されるこどもたち、左手にはその場では祝福されなかった青年という構図で捉えますと 更なる解釈の可能性が見えてきます。つまり人の子イエスはその時代の経済的にはアッパークラスの青年に対して貧困層のこどもたちへ「ノブレス・オブリージュ」としての責任を示しているという理解です。

事態はそれにとどまらず『ヨブ記』で不条理な苦難に遭った義人ヨブが「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え 主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と呟く箇所に焦点が向けられます。青年がこの箇所をどのように受けとめているのか イエス・キリストは慈しみながらも厳しく問うているようにも思えます。
 

経済格差がますます拡大するなかで本日の箇所を繰り返し味わいますと 貧しくあるがゆえに暮らしに必要な知識すら十分に持てない人々に対する関わりをイエス・キリストは積極的に促しているように思えます。それは貧乏人であれ金持ちであれ「裸で生まれ、裸で帰る」ほかはない人の儚さと崇高さを同時に示しているようです。

不景気や物価高のなか外国人への不当な差別的言動や偏見が暮らしを侵食する一方で キリストの生きかたと教えに従うわざは 神の前に立つ人としての正気を保たせてくださります。

新しい一週間を始めるにあたり主なる神がともにいてくださるよう祈ります。キリストにある「正気」を確かめながらともにあゆみましょう。