おかげさまで、本日は聖霊降臨節第20主日礼拝を献げることができました。みなさまのお祈りに深く感謝申しあげます。
『ヨハネによる福音書』11章1〜16節では、兄弟ラザロの死に慟哭するユダヤの人々と姉妹マルタが描かれ、そしてその報を受けて現地に赴こうとする人の子イエスの姿が記されます。しかし不思議にも弟子たちにはラザロの住まいのあるベタニアは「師であるイエス」を石打ちにしかねない危うい場所として映ります。いや、それだけではなく、その暴力は自分たちにも及ぶとされ、ベタニアへの訪問には誰も乗り気ではありません。そのなかで際立つのが、怯む弟子のなかで唯一「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と気勢をあげるトマスの姿です。
ラザロの死と甦りはイエス・キリストの十字架での死と復活の出来事とも関連つけられます。しかしその面が強調されるほど、復活したキリストをトマスが頑なに受け入れなかった態度が浮かびあがります。人間とはこのように裏表のあるものであると見なす、福音書記者たちの人間観のリアリズムを看取できるというものです。イエス・キリストは、そのような表向きの悲壮感に先んじて、ラザロの死を悼むベタニアに暮らす人々の涙をともにされました。この涙の前には殺意も憎しみもすべて力を失います。
奥能登地方を襲った局地的な豪雨は、元旦の震災で緩んだ地盤を破壊しました。取材に向かう報道関係者は、被災者の涙をともにしながらの取材に懸命です。絞り出されることば一つひとつが、現地を支援するうえでの貴重な情報となり得るからです。東日本大震災以降、取材するメディア関係者と取材を受ける被災者を隔てる壁がぐんと下がったように思われます。
涙を中心とした共同体は、新たないのちの共同体の可能性をイエス・キリストから授かります。敵味方の別け隔てをも無効化する神の愛の働きがそこには見出せるのではないでしょうか。トマスは今その途上にいます。
新しい一週間がみなさまには主なる神の希望に満ちた時となりますよう祈ります。被災地・紛争地の人々を覚えつつあゆみましょう。