2025年1月26日日曜日

2025年2月2日(日) 礼拝 予定

  ―降誕節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「決して譲れないいのちの大原則」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』21 章12~17 節
(新共同訳 新約40頁)

讃美= 
21-494(Ⅰ.228). 
121. 21-29 (544).

説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

降誕節第5主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第5主日礼拝を献げることができました。教会の庭にある梅のつぼみもふくらみ、今朝は今年初めての梅の花を愛でることができました。
 

俗に「桜伐る馬鹿 梅伐らぬ馬鹿」と申します。江戸時代に人工的に交配された結果生まれたソメイヨシノは種により育つのではなく、挿木により広がってまいります。春一斉に開花するのは今日的にはクローンであるがゆえの現象だとされ、病害虫には弱いとされます。
 

他方で梅には多くの品種があり、生命力も旺盛で枝の手入れをしないと却って日当たりが悪くなるので枝を程よく伐採しなくてはなりません。多様性を保てるこその強みだと申せましょう。
 

最近の世界を鑑みますと、何かにつけてこの生物的多様性のみならず社会的多様性を否定的に受けとめる気配が生じつつあります。しかし生命力とは抑圧されればされるほど強靭になるとの性質も併せ持っています。

囚われの身となった洗礼者ヨハネから、神の愛の訪れを説きつつ証しする役目を託された人の子イエス。その交わりは洗礼者ヨハネ以上の恵みの力を発揮して人々のいのちをより豊かに花咲かせます。

一月最後の礼拝となりました。さまざまなライフステージの変化や受験などのハードルに向き合う方々も多いかと存じます。このような状況下では日常では考えられない圧力や不安に襲われる場面もあることでしょう。

しかしこのようなわたしたちにイエス・キリストは「安かれ」と仰せになります。多様性をより深めつつ、淡々としかし確実に、次年度へのステップを進みたく願います。病の床にある方々、療養中の方々に神の癒しと支えがありますように祈ります。

2025年1月19日日曜日

2025年1月26日(日) 礼拝 予定

  ―降誕節 第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「不安と恐怖からの解放の知らせ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4 章12~17 節
(新共同訳 新約5頁)

讃美= 
308. 21‐475(352).
21-24 (539). 


説教要旨・動画、ライブ中継については、
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降誕節第4主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第4主日礼拝を献げることができました。暦では大寒を迎えましたがあたたかな陽の光につつまれた朝を迎えました。
 

説教のテキストは『ルカによる福音書』5章12節以降に記されている、漁師がイエス・キリストにすべてを捨てて従うという場面。人の子イエスのことばに従い昼ひなかに網をゲネサレト湖の沖合で投じたところ、漁師たちは予想に反し豊かな収穫を授かったとの物語です。古代でも現代でも漁業はまことに命がけの仕事でした。
 

不思議なことに、大漁だった事実を漁師たちは素直に喜べず、イエスにひれ伏して「主よわたしから離れてください。わたしは罪深い者だからです」とつぶやきます。その描写には、人の子イエスの不当な身柄拘束の際に逃げ出したペトロの姿が隠されていました。紀元80〜85年ごろに成立したとされる『ルカによる福音書』の書き手集団は、弟子たちのキリストの処刑の際の振舞いを覚えているのです。その後の失望に満ちた日々からの立ちなおり、やりなおしの姿もまたこの場面には重ねられているともいえるでしょう。日曜日の礼拝は、そのような「やりなおし」から始まる新しい出発を意味しているのかもしれません。阪神・淡路大震災から30年を経てなおも苦しみの途上にある方々とのともにある日ごとの祈りと出発が求められているようでした。
 

礼拝後には「アメリカの教会巡り」と題されたお話を、泉北ニュータウン教会の交わりを大切にしてくださるN兄から学び、豊かな一日となりました。衷心より感謝申しあげます。

みなさまの新しい一週間に主なる神のますますの祝福がありますよう祈ります。感謝。

2025年1月12日日曜日

2025年1月19日(日) 礼拝 予定

 ―降誕節 第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「漁師からキリストの弟子へ」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』5 章 1~11 節
(新共同訳 新約 109頁)

讃美= 
21-495,(310). 
21‐306(1.2.4.5.), 
21-24 (539).


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降誕節第3主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第3主日礼拝を献げることができました。本日のメッセージでは人の子イエスが洗礼者ヨハネから「水によるきよめの洗礼」を授かるという場面でした。他の人々には「きよめ」であったとしても人の子イエスには「きよめ」を必要とする人々とその身を同列に置くのであり、まさしく神の祝福のもと救い主キリストが大地に立ったことを示す記事だとのお話でした。
 

礼拝では「二十歳の祝福式」を執行し、1名の若者が神の祝福を授かりました。確かに今は混沌とした世の中ではあり、前途をはかなむ気持ちも分からなくはありません。しかしながらイエス・キリストの祝福を授かっているわたしたちには、どうすればよいのか分からない世にあってなおも希望の光を備えられているとの確信を分かちあいました。
 

讃美歌の歌詞も『聖書』の翻訳も時に応じて変わります。しかしそのことばに示された神の愛は決して変わりません。その愛に根を下ろして新たなあゆみをともに始めたいと願います。老若を問わずさわやかな風のなか新しい一週間を進もうではありませんか。みなさまに主なる神がともにおられますように。
 

2025年1月5日日曜日

2025年1月12日(日) 礼拝 予定

―降誕節 第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 


説教=「救い主、大地に立つ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』3 章 13~17 節
(新共同訳 新約 4頁)

讃美= 21-268(97). 21‐474,
   21-24 (539).



説教要旨・動画、ライブ中継については、
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降誕節第2主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第2主日礼拝を献げることができました。教会の付近に転居してこられた方、懸命になって礼拝に出席された方、様々な方々が招かれて主なる神を讃えました。
 

『マタイによる福音書』でイエスの父ヨセフはエジプトからナザレへと足を進めた際にヘロデ大王の息子の統治下を避けてベツレヘムに引きこもりました。人の子イエスの幼少年期が鮮やかに描かれる『ルカによる福音書』とは異なり、この「引きこもり」の中で家族は次のライフステージを迎えます。そしてそのとき、イエスの父ヨセフは福音書の舞台から静かに姿を消していきます。
 

私事で恐縮ですが、牧師は昨年暮れに齢55歳を数えました。つまり青年期の若者とは異なる「ことば」の世界での生活を余儀なくされることでもあり、この異なる人生経験や世界観を自覚しつつ青少年の人々とコミュニケーションを計らねばなりません。しかし最後は漠然とでもイエスの父ヨセフのように背中を記憶に残せればと願います。顔も名前も忘れられてもよいのです。
 

思えばイエス・キリストが人々に伝えたとされる「主の祈り」では「父」とのことばこそあれ、「神」とのことばはひと言も用いられません。その陰にはヨセフの背中があったと考えるのは読み込みすぎでしょうか。

たとえ名が知られなくても、神の愛の証しは存分に可能です。キリストへの道備えはその匿名性のなかでこそ光を放つようにも思います。礼拝後には「教会の活動を考える会・伝道委員会」を開催し、新年の教会のあり方を協議しました。また、聖日礼拝を陰ながらお支えくださった こひつじこども園の若手職員にも衷心より感謝申しあげます。みなさまに主なる神のますますの祝福を祈ります。
 

2025年1月1日水曜日

元旦礼拝を献げることができました

降誕節の最中、おかげさまで泉北ニュータウン教会では元旦礼拝を献げることができました。朝日を浴びて礼拝堂は光につつまれ、新しい年の訪れのあゆみを尋ねるべく『聖書』のメッセージをともに分かちあいました。
 

テキストは『ヨハネによる福音書』1章1〜5節の「初めに言(ことば)があった」で始まる箇所でした。説教では牧師が大学のチャペルアワーで触れた「ことばがあるからにはその前に神の深い思いがあったに違いない」とのフレーズに感銘を覚えたとの話から始まりました。ことば、または表現をも含めて意思疎通のためには相手の言葉に深く耳を傾ける必要があり、耳を塞ぐ傲慢さは『旧約聖書』のバベルの物語のようにあらゆる関係を混乱させてしまうとのメッセージでした。『創世記』以降の物語にある、知らず知らずのうちに傲慢になる人間のありようへの楔ともなる救い主イエス・キリストの誕生を、クリスマスの余韻の冷めない元日も互いに祝いました。
 

礼拝後には礼拝堂に集った方々が交わりを深め、元旦礼拝を覚えながらも欠席を余儀なくされた方々の健康を祈り、1月5日に控えている聖日礼拝の備えをした後に解散しました。
 

時節柄感染症に悩まされている教会員のご様子も伝えられました。新しい年、みなさまが何よりもお健やかでありかつ神さまの平安に満ちた時を過ごされますよう祈ります。さまざまなライフステージの変化があるには違いありませんが、神はいつもともにいてくださいます。安心して時を見極めましょう。