2025年3月23日日曜日

受難節第3主日礼拝を献げることができました

おかげさまで受難節第3主日礼拝を献げることができました。本日のテキストには、使徒ペトロの人としてのあり方の曖昧さが描かれます。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」との理解を表し イエスに「あなたは幸いだ」と祝福されながらも その直後にキリストの苦難、十字架での殺害とその後の復活を「あってはならない」と諌めたことで「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と戒められてしまいます。
 

ごく短い物語でのペトロの扱いからは 人の姿に理想の姿を追いかけてしまううわべの「信仰」の大きな問題が示されています。すなわち個人の内面の問題の枠を出ずに論じられた信仰はかくまでもろい という事実です。
 

『聖書』が信仰と呼ぶのは神からの祝福に根ざした「関係」であり それはイエス・キリストとの間柄でも同様です。相手から恵みとして先に授かるのが信仰であり それはこちらの都合を問いません。ペトロはその意味では勘違いをしています。だからこそ「鶏の鳴く前に三度イエスを否定する」という挫折と涙を通してようやくキリストの教えと生涯が示す事実を悟ります。その事実とはわたしたちが「赦された罪人」としてキリストに従うというあゆみでした。
  

今年の春分の日は3月20日でしたが奇しくもこの日は三十年前にあるカルト教団が未曾有のテロ計画を決行した日でもありました。ただ注目したいのはこの事件にいたるまでマスコミがこの教団の教祖をバラエティー番組に登場させたり「知識人」も対談を望んでいたりしたとの過ちが忘れ去られているありさまです。カルト教団に属する若者は正義を掲げてテロを行いました。他方でその被害を受けて亡くなったり障がいを引きずっている方々の時は停止したままです。
 

今 社会の歪んだ正義感は SNSでの匿名の煽動的な攻撃へと移りました。誹謗中傷を受けた人々の中には自死に追い込まれる方々さえおられます。感情的な一時の高ぶりが取り返しのつかない過ちにつながるとの警鐘は すでに使徒ペトロの過ちに示されてはいないでしょうか。
 

他者への否定ではなく 自らを苦しめる者にも神の愛を貫いたイエス・キリストこそ わたしたちが仰ぐべき救い主です。その愛に基づいて日々のあり方を問い直してまいりましょう。みなさまの新しい一週間に主なる神のますますの祝福を祈ります。