2026年3月22日日曜日

受難節第5主日礼拝を献げることができました

おかげさまで 受難節第5主日礼拝を献げることができました。三寒四温のなか比較的冷たい風吹く一日でしたが礼拝には聖日礼拝には多くの方々が老若を問わず集い主イエス・キリストを讃美しその苦難を偲びました。詳しくは動画をご覧ください。
動画のページはこちら
   

牧師にとりましても訣別礼拝となったこの礼拝はことのほか心に刻まれるものとなりました。世界的には相次ぐ戦争の勃発や国内では沖縄県の辺野古基地での事故の犠牲者ご家族関係者に思いを馳せながら牧者は説教壇に向かい執り成しの祈りを献げました。
  

礼拝後には牧師を送る交わりが行われてこの場でも神の愛への讃美を献げました。その後には新旧合同役員会と(福)地球の園理事会を行いました。
 

11年間にわたり続けてきた泉北ニュータウン教会での伝道牧会。思い起こせば失敗の連続でしたがそれでも教会員の方々から厚い感謝と涙に見送られました。牧師のこの振り返りも今回が最後となります。棕櫚の主日から無牧師となる泉北ニュータウン教会です。どうかどうかみなさま今後とも教会へ祈りと想いを寄せてくださり折に触れてお支えくださりますよう祈ります。

父なる神の愛 主イエスキリストの恵み 聖霊のともなる交わりが みなさまとともにとこしえにありますよう祈ります。


2026年3月16日月曜日

2026年3月22日(日) 礼拝 予定

 ―受難節第5主日礼拝―

――牧師訣別礼拝――


時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「人の子イエスのグレート・リセット」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章35~45 節
(新約82 頁)

讃美=
267,495.21-29.

当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

 

2026年3月15日日曜日

受難節第4主日礼拝を献げられました

おかげさまで受難節第4主日礼拝を献げられました。昨日は泉北ニュータウン教会と建物をともにする「 こひつじこども園」の卒園式が執行され29名の園児さんが新たな門出を迎えました。その笑顔と瞳に背筋が伸びるとともに一抹の寂しさも残りました。
 

とはいえ過ぐる週には東日本大震災から数えて15年目の3月11日を迎えました。写真にはあの日の変わらないままの小学一年生の肖像があり イランでは米軍のミサイル攻撃により大勢の小学生や教職員が殺害されています。「神さまどういうことだ」という声が涙ながらの「アッラー・アクバル」には響きます。ランドセルを手にした母親が三陸沖に向けて名を呼ぶ姿も浮かんでまいります。
 

わたしたちは今が「受難節」であることを忘れてはいけません。そのなかで味わった『マルコによる福音書』9章では人の子イエスが山へ登ったところ真っ白な服をまとい輝く姿で『旧約聖書』の物語に登場するモーセやエリヤと語らう場面が描かれます。弟子はうろたえるばかりですが、モーセもエリヤも決して自己充足した平和に安らわずイスラエルの民の過ちにより働かざるを得なかった人々でした。モーセやエリヤの生涯は傍目には幸せだとは決して言えませんがアブラハムの神により絶対的に肯定されていました。

人の子イエスはさらにその肯定を超えて神のあふれるばかりの愛に満ちた生涯を十字架の上で全うしました。その苦しみが何よりもわたしたちとキリストとを結ぶ「軛(くびき)」となり イエス・キリストとともに生きる道を拓きます。さらに山の上で見せたその輝きは 復活したキリストの姿を先取りしています。

心ならずも望まずして天に召されたこどもたち。わたしたちには涙に暮れるばかりですが イエス・キリストはこの子たちを抱擁し祝福してやみません。さらにわたしたちにはこの愚かな争いや不十分な補償のなか苦しむ方々との連帯責任を求めます。ホルムズ海峡へ掃海艇を送ろうとする政府に甘んじるのではなく 彼の地の傷つき悲しむこどもたちに想いを馳せてこそのキリスト者です。主の平和を乞い願いつつ それぞれの日常に則して世の平和を追い求めましょう。
 

聖日礼拝後には臨時教会総会が開かれ次年度の役員担当者が選出されました。主の平和を願いこどもたちが笑顔となる環境を整えるべく祈りましょう。「これはわたしの愛する子 これに聞け」との本日のテキストのことばは今もわたしたちの心に響いています。

2026年3月13日金曜日

2026年3月15日(日) 礼拝 予定

 ―受難節第4主日礼拝―


時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「キリストを通して注がれる神の愛」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』9 章2~8 節
(新約77頁)

讃美=
Ⅱ 80,21-462(292).21-29.

当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

 

2026年3月8日日曜日

受難節第3主日礼拝を献げることができました

みなさまのお祈りのおかげで 受難節第3主日礼拝を献げることができました。ろうそくのともしびも消され いよいよイエス・キリストの苦難と深く関わりながらも 青空に復活の希望を見出す朝となりました。
 

本日の聖書箇所である『マルコによる福音書』では「あの男は気が変になっている」との噂からその身柄を拘束しにきた身内のものにかぎらず「あなたはメシアです」と表向きは信仰を言い表したかのように映るペトロを始めとした弟子もまた イエス・キリストを誤解していた様子を看て取れます。なぜなら人の子イエスが苦難の道の果てに十字架で殺害されたその後の三日目に復活するとの話を受け入れられなかったからです。弟子には帰依し心酔する人の子イエスの姿だけが目に入るばかりで救い主の何たるかは隠されたままでした。「気が変になっている」との噂だけでなく「誤ったメシア像」との思い込みの狭間で すでにイエス・キリストは誤解の板挟みとなり孤独に陥っている様子が分かります。わたしたちであればこう叫ぶに違いありません。「ちがう。そうじゃない!」。
 

今 わたしたちの身近なところ でまた世界の至るところで流される涙と血潮のなか いったいどれほどの「ちがう。そうじゃない!」との叫びがこだましていることでしょう。誤った情報に知らない間に操られて「分かった気に」させられているわたしたち。今こそ世に流布する虚像や誤った物語から解き放たれて本来向き合わなければならない課題や人々に相対しなければなりません。先入観のうちに安らうのではなく 耳を傾けるべき声を違わず 手を結んで神の平和のために働く時代となりました。
 

各々の日常性を尊びつつ 誤解のなかに立ちつくす人々と痛みをともにし 孤独を通してイエス・キリストと連帯しましょう。わたしたちは煽られ捏造された敵対関係ではなくフェイクを圧倒する神の平和と真理を追い求めます。
 

礼拝後には各部総会が開かれ今年度のあゆみの振り返りが行われました。またリモート中継を維持・発展させるための話し合いもありました。ご奉仕くださった方々に衷心から感謝いたします。平和と和解の主イエス・キリストのますますの祝福がみなさまとともにありますように祈ります。
 

2026年3月1日日曜日

2026年3月8日(日) 礼拝 予定

 ―受難節第3主日礼拝―


時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「人々の誤解のなかに立ち続けて」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』8 章27~33節
(新約77頁)

讃美= 
21-300(262).21-443(124).21-29.

当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

 

受難節第2主日礼拝を献げることができました

おかげさまで受難節第2主日礼拝を献げることができました。荊の燭台のろうそくも二本目が消されるなかでの礼拝でした。『争いの土俵に乗らない知恵』と題して『マルコによる福音書』3章20〜27節を味わいました。匿名の中傷の風に立ちながらイエス・キリストは自らの癒しのわざが悪霊の頭による権力闘争ではなく神の愛によるものだと証しされます。
 

家族間の争い事のみならず国際間の紛争もまた暴力という名の争いに溢れています。暴力の土俵に乗らずに課題を分かちあわなければわたしたち人類はいずれ滅びるでしょう。
 

強さだけを分かち合うのではなく弱さを受け入れあうところの主にある信義こそわたしたちに求められています。イエス・キリストは神の信義に基づく知恵により自らを暴力の歯止めとして苦難の道を歩みました。

ロシア・ウクライナ戦争、ベネズエラやメキシコの紛争、そしてアメリカ合衆国とイスラエルによるイランへの攻撃。これ以上、地球に燎原の火のごとく争いが広まらないためにも祈り神の愛の証しを立てる世を迎えました。時代の灯台としての役割が教会には求められています。
 

聖日礼拝後には3月度の「教会の活動を考える会」をもちました。実に濃密な話し合いといくつかの結論を導き出せた幸いに感謝します。2025年度最後の定例の話し合いを全うできました。こころより感謝申しあげます。

2026年2月23日月曜日

2026年3月1日(日) 礼拝 予定

―受難節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「争いの土俵に乗らない知恵」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』3 章20~27 節
(新約66 頁)

讃美= 
21-306(Ⅱ177).21-471(Ⅱ164).

当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

 

2026年2月22日日曜日

受難節第1主日礼拝を献げることができました

おかげさまで受難節第1主日礼拝を献げることができました。日差しは少しずつ春めいてきましたがやはり三寒四温の感は否めません。
 

説教壇のバナーも受難節の色となりました。キリストのご受難を思い出し なによりもわたしたちとともに苦しみの軛をともにするだけでなく 十字架による処刑という人には恐るべき場へとあゆまれたその道を想い起こす季節を教会は迎えたのです。

神の愛とは互いに慈しむわざに留まるだけでなく たがいの苦しみを分かちあうわざであるとも言われます。この絆をともにして教会共同体はその交わりを堅くしてまいりました。

泉北ニュータウン教会では荊の燭台に灯されたろうそくを週ごとに消しイエス・キリストの受難のあゆみをたどります。世にある苦しみを他人事ではなく当事者として分かちあえますようにと祈ります。聖日礼拝の後には有志により「たけしろみんなの食堂」が行われました。新しい一週間に主なる神の祝福が豊かにありますよう祈ります。

2026年2月15日日曜日

2026年2月22日(日) 礼拝 予定

 ―受難節第1主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「わたしたちを誘惑からお救いください」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章12~15 節
(新約68頁)

讃美= 
21-287(272).21-514(449).21-26.

当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

 

降誕節第8主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第8主日礼拝を献げることができました。寒の戻りを繰り返しながら紅白の梅は咲きこぼれ日毎に春の訪れを感じます。
 

しかしながら山間部や海上では天候が大いに荒れる時期でもあり「春一番」との風ももともとは安政年間の海難事故に由来するとのことです。

本日の聖書箇所は『マルコによる福音書』4章35〜41節にある 夕刻以降の時間に波で荒れ狂うガリラヤ湖の湖面で「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか」という弟子の絶叫に艫に枕をして眠っていた人の子イエスが立ちあがり「黙れ、静まれ!」と叫ぶ場面。「なぜ怖がるのか。なぜ信じないのか」との言葉とともに凪いだ湖面を前にして慄く弟子の姿が浮かびます。

思えば『創世記』族長物語では兄の代わりに長子権を授かったヤコブがかつていのちを狙われた兄エサウのもとに戻ろうとした折 ヨルダン川のヤボクの渡しで神の天使と一晩中格闘して生きながらえたとの物語が記されます。天使との格闘によりヤコブはエサウへの恐れを一掃され「イスラエル」との名を受けました。

神の備える恐れとは人の世の恐れを一掃し 新しい展望を開きます。まさに「光あれ」。到着すべき向こう岸が目の前に広がってまいります。

あらゆるステージが変わろうとするこの時期 どうかみなさまには主なる神のますますの祝福と平安を祈ります。

2026年2月8日日曜日

2026年2月15日(日) 礼拝 予定

  ―降誕節第8主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「あり得ないことが起きるとき」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』4 章35~41 節 
(新約68頁)

讃美=  21-502(326).21-404(217).21-26.


当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

 

降誕節第7主日礼拝を献げられました

おかげさまで降誕節第7主日礼拝を献げられました。窓の外には雪の舞う朝。豪雪地帯にある諸教会の教会員や牧師の労を想い起こしながらの礼拝となりました。
 

『聖書』の箇所は『マルコによる福音書』2章1〜12節にある、人の子イエスのもとに四人の男性が中風により寝たきりの人を連れてきたというお話。あまりの人垣に出会いを阻まれた四人のサポーターは家の屋根をはがして中風の人を屋外から吊りさげて人の子イエスに病を癒やしてもらうという荒わざに打ってでます。不思議なのは家主が全く妨げもせずおそらくは群衆のなかでこのわざを見ていたというところ。イエス・キリストは身動きのできない中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」との宣言から具体的な対話が始まります。イエス・キリストは「起きあがり、床を担いで家に帰りなさい」とついには語りますが、これは不穏なこころの動きを見せる律法学者への配慮あってのことば。癒されるべき当事者へのあれやこれやの命令を当初人の子イエスはいたしません。

むしろイエス・キリストが目を見張ったのは四人のサポーターが決して中風の人を見捨てないどころか、屋根をはがすという前例のない工夫のもと屋内に病人を吊りおろしたところにあったのではないでしょうか。

今日のような制度としての医療や福祉に乏しい時代にあってこの中風の人は「あなたの罪は赦される」との宣言により自分を蔑むわざから解放されます。人に迷惑をかけないように、との自助理論や自己責任論が声高に叫ばれるわたしたちの世界の壁をもこの宣言は突き破ります。

現代では尊厳死や安楽死をめぐる言論も活発です。しかしわたしたちが見落としているのはそのような言論の根拠がしばしばインターネットによる情報であるところにあります。身体性を欠いた身勝手な主張に乗せられて 自分のいのちの可能性に絶望する方々がいます。けれどもイエス・キリストはいのちに過酷な世にあって「あなたのいのちはすばらしい」と語りかけ そばにいてくださるのです。四人の男性もまた ただその人を愛し 逆に支えられていたがゆえに イエスを訪ねてきたのではないでしょうか。

礼拝後はお茶のご奉仕を受け 身体を温め交わりが育まれました。教会学校では凧揚げが予定されていましたが天候によりプログラムを変更 こどもたちのにぎやかな声が響きました。

寒いなか教会へお越しになった方々も 中継礼拝をご視聴くださった方々にも 新しい一週間 主なる神の祝福が豊かにありたすように また病の床にある人 施設におられる方々に イエス・キリストの深い癒やしが臨みますよう祈ります。

2026年2月2日月曜日

降誕節第6主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第6主日礼拝を献げることができました。寒さのなかにも日差しの柔らかな一日となりました。
 
この日の『聖書』のテキストは『マルコによる福音書』の「種を蒔く人の譬え」。蒔かれた種はいろいろな場所に落ちていきます。ある種は道端に落ち鳥に食べられます。ある種は石だらけの場に落ち日に焼けて枯れてしまいます。ある種は茨の中に落ち十分に育たず実を結びませんでした。よい土地に落ちた種籾は豊かに育ち百倍もの実を結んだとのお話です。

「ことば」を種に重ねるならば この「よい土地」とはわたしたちの日々のあり方。ことばとこころの距離が近いほど わたしたちのことばには出会いとしての力が宿ります。「神のことば」であればなおのことわたしたちの生き方に大きな方向転換をもたらします。

反対にことばとこころの距離が遠くなれば どのような美辞麗句であっても空疎に聞こえます。祈りの力とはまさにこの距離の近さによって立ちもし倒れもするのではないでしょうか。

もし日々の忙しさの中で祈りのことばの吟味に困るようならば その時こそ聖日礼拝にお越しになる機会です。神のことばが人となったとの出来事 イエス・キリストとの出会いをともにいたしましょう。

全国の雪国の教会・附帯施設に勤務する方々 牧会に励む牧師の方々を覚えて「執り成しの祈り」を献げました。礼拝後には定例役員会を行いました。なお礼拝中継につき映像が出ませんでしたことこころよりお詫びいたします。

2026年2月8日(日) 礼拝 予定

 ―降誕節第7主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
説教=「あなたの罪は赦された」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』2 章1~12 節
(新共同訳63頁)

讃美=  
21-57.21-540(403).21-26.

当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

2026年1月26日月曜日

降誕節第5主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第5主日礼拝を献げることができました。寒いなかでしたが礼拝堂には老若を問わない出席者が神様に招かれました。
 

メッセージのテキストは『マルコによる福音書』1章に描かれた 本福音書で初めて人の子イエスが癒しのわざを行なうところです。古代ユダヤ教の会堂で「悪霊にとりつかれた」とされる男性がおり「ナザレのイエス かまわないでくれ。われわれを滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫ぶ箇所でした。同じ福音書の5章では「墓場を住む悪霊つきの男性」の話が描かれます。墓場は明らかに一般の人々の暮らしから疎外されていると気づきますが会堂をわたしたちの礼拝堂におきかえて考えますと 人々の暮らしに開かれた場でもあるといえます。そのような場にも疎外され心病む人がいたと考えますとまことに心痛む状況です。
 

経済不況と物価高に悩むわたしたちは高度経済成長期やバブル期をして「あのころはよかった」と回想しがちです。貧困は海外の開発途上国のみにあると思い込み 支援もしてまいりました。しかし国内にも森永ヒ素ミルク事件 カネミ油事件始め今日考えれば背筋の凍るような事件がありましたが 概してわたしたちの記憶からは忘れ去られています。しかし当事者の方々は今なお苦しみ社会から疎外されているのです。「悪霊にとりつかれた」とは当時の医療では治療しがたい難病罹患者をも指していると言われています。種々の事件も原因が解明されるまで「奇病」として扱われました。
 



このような当事者の方々を前にしてわたしたちは「祈り ささえること」ばかりを考えます。しかし「祈られ ささえられる」方々の痛みにどれほど思いを寄せていることでしょうか。今 食事に困っている人々に千羽鶴を送るような勘違いをしてはいないでしょうか。イエス・キリストは自ら疎外され十字架への苦難の道をあゆみました。その意味ではイエス・キリストの癒しのわざは「双方向」でした。

わたしたちは悪意のみならず善意の空回りから解放されるためにも聖日礼拝と関わり祈りを献げます。すべての束縛から解放されてのびやかに新しい一週間をあゆみたいと願います。
 

2026年も最初の月を全うしようとしています。礼拝後には「たけしろみんなの食堂」がにぎやかに行われました。みなさまの新たな一週間に主なる神の祝福がますます臨みますよう祈ります。

2026年1月25日日曜日

2026年2月1日(日) 礼拝 予定

 ―降誕節第6主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「種まきの条件」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』4章1~9節
(新約66頁)

讃美=  21-18(Ⅱ1).21-461(294).21-26.


当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

 

2026年1月18日日曜日

2026年1月25日(日) 礼拝 予定

   ―降誕節第5主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「神の救いの兆し」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章21~28 節
(新約62頁)

讃美=  21-530(316).21-463(494).21-24.


当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

 

降誕節第4主日礼拝を献げることができました

おかげさまで 本日は降誕節第4主日礼拝を献げることができました。『聖書』の箇所は『マルコによる福音書』1章14〜20節。人の子イエスがガリラヤ湖のほとりで最初の弟子を招いたところを軸としてお話ししました。
 

人の子イエスが初めて弟子としたのは漁師を生業とする者でした。厳しい自然を前にして生き抜くほかない漁師は徹頭徹尾「生活者」以外の生き方を知りません。けれどもこの漁師たちが弟子となることで教会が本来なら歴史の波に忘れ去られていく人々にイエスがキリストであると伝え その交わりを広げてまいりました。

もちろんその歩みは順風満帆というわけではありません。罪を犯し 主なる神の愛に幾たびも叩かれての今日があります。名もない生活者の群を礎とすることで 神の愛をもっとも必要とする人が集う場となりました。

本日は阪神・淡路大震災から31年を迎えての礼拝としても献げられました。31年という歳月にあっても決して癒されない悲しみがあります。その涙を忘れずに主なる神の深い癒しと慰めを祈ります。

高校生には大学受験で精一杯の方々もおられることでしょうし、大学受験に限らず日々自らの進路を問うておられる方々も多いことでしょう。

ただ そのような思い煩いに呑まれてしまうのも考えもの。「明日のことを思い煩うな。明日は明日自らが思い煩う」とイエス・キリストは朗らかに語っておられます。その温かさをともにしつつ新しい一週間を歩みたく存じます。

2026年1月11日日曜日

2026年1月18日(日) 礼拝 予定

  ―降誕節第4主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「湖のほとりで」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章14~20節
(新約61頁)

讃美=  21-504(285).21-518(361).21-24.


当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

 

降誕節第3主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第3主日礼拝を献げることができました。

寒風の中ではありましたが 教会員始め関係者が主なる神の支えてくださることもまた何よりの喜びです。
 

本日は二十歳の祝福式礼拝でした。泉北ニュータウン教会では今年は1名の教会員を祝福できました。感謝と献身の祈りでは併設事業体である こひつじこども園を卒園された方々も覚えて祈りが献げられよき礼拝となりました。

聖日礼拝の報告では当教会とゆかりあるウクライナからの避難民のご家族を覚えてのメッセージがあり 平和への祈りを改めて堅くいたしました。

概ね今週から全国では冷え込みが厳しくなります。とくに雪かきが必要となる地域の教会ではその折での事故も案じられます。

身体の調子を崩している教会員・関係者のみならず新しい一週間の こひつじこども園・放課後等デイサービスこひつじの働きが整えられ用いるご家族・保護者の方々に主なる神の祝福が豊かに臨みますよう祈ります。

ナザレのイエスがバプテスマのヨハネから水による洗礼を授かり時にかなった神の愛の証しを自らの生涯を通してお示しくださったように わたしたちの一週間もまた神の子の謙遜の姿にしたがい定められますように祈ります。

みなさまに主なる神の愛がますます豊かに備えられますように。

2026年1月4日日曜日

2026年1月11日(日) 礼拝 予定

 ―降誕節第3主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
説教=「天が裂けるとき」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章9~11節
(新約61頁)

讃美=  21-529(333).461.21-24.


当日の礼拝の詳細については、
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

 

降誕節第2主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第2主日礼拝を献げることができました。2026年を迎えて初めての聖日礼拝。聖書箇所は『ルカによる福音書』2章41〜52節の少年イエスの物語。12歳を迎えた少年イエスが両親が毎年行っていた過越の祭行脚から離れ エルサレムの神殿で律法学者たちと問答を繰り広げるという話。母マリアと父ヨセフはいつのまにか帰路から離れたイエスを探し求めて混乱し 三日目に見つけた少年イエスに「なぜこんなことをしてくれたのか」と叱りつけますが 少年イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えます。この言葉に「両親はイエスの言葉の意味が分からなかった」と福音書の書き手は記します。
 

この箇所で明らかなのは人の子イエスの言葉は両親にも理解できなかった、というところです。ローマ・カトリック教会や東方オーソドックス教会で権威づけられた「聖家族」のイメージよりも、むしろ次世代の言動を前に戸惑う両親の姿がありありと目に浮かびます。
 

わたしたちには見当もつかない世界を 次世代の若者たちは軽々と乗り越えていきますが そのような若者たちをわたしたちは「わたしたちの若いころは」とおのれの経験則で束縛し 神から託された自由な言動を縛りあげがちです。しかし人の子イエスは 神の言葉のもつ自由をその少年の時代から体感していました。なぜならばイエス自らが神の言葉として世に遣わされた救い主だったからです。

時にイエス・キリストはメシアとして崇められ また時にイエス・キリストは「気が変になっている」と噂で貶められました。しかし他の福音書であればともかく『ルカによる福音書』では両親が徹底して息子を信頼していた様子を描いています。
 

こどもが両親の理解を超えた言動をとるときに親に求められるのは徹底してわが子を信頼するという態度です。ただそれは神への信頼なしには困難な道です。

わが子が親の想定した路線から外れたときにこそ わたしたちにはこどもへの不平不信ではなくイエス・キリストに根ざした深い信頼がぜひとも求められます。この態度は教会員・牧師家族を問わず求められるあり方です。

2026年を迎えて初めての聖日礼拝は 何よりも次世代が神に示された道をあゆむためにも欠かせませんでした。短期的な視野での願かけのようではなく 人生を全うしたときに「これでよかったのだ」と喜びに満ちあふれる生き方を次世代が辿れるように祈りを重ねたいと願います。

聖日礼拝の後には「教会の活動を考える会・伝道委員会」を行い 次年度の課題を含めて話し合いました。

パレスチナ、ベネズエラ、ウクライナ、インドシナで戦争に苦しめられている障がい児・者やこどもたち、ご高齢の方々を覚えて祈りを献げました。みなさまの新しい一週間・一年間に主なる神のますますの祝福がありますよう祈ります。

2026年1月1日木曜日

元旦礼拝を献げることができました

おかげさまで泉北ニュータウン教会では2026年の元旦礼拝を献げることができました。
 

東アジア圏内での「お正月」にもまさってお祝いされるのがユダヤ教での「過越の祭」です。古代エジプト文明で奴隷として扱われていたヘブライ人が 奴隷解放の神に解放されて 二世代をかけて「乳と蜜あふれる約束の地」カナン地方を目指して旅を始めます。なおこの箇所をして国民国家としてのイスラエルを正当化する向きもありますがあくまでもその動きは一部でしかありません。
  

むしろイエス・キリストはユダヤ人であり 弟子や使徒パウロもユダヤ人であったばかりか この祭を尊んでいた様子を思い浮かべますと ローマ帝国の支配華やかなりし時代にも連綿と続いた解放の喜びの響きが伝わるようです。

しかしわたしたちが「解放は喜びである」との話を聞いても今ひとつピンとこないのではないでしょうか。わたしたちは「解放」よりも「帰属」に安らぎを覚えますし「自由」よりも「安定」に安心するからです。

しかしそのような共同体が直面する課題とは「多様性」や「他者」「異文化」への向き合い方です。日本文化では否定的に理解されがちな「逃げる」というあり方も野生動物ばかりかアブラハムの神に素直に従う人々には いのちを尊ぶという意味で尊重されるべき態度として奨励されます。

思えばアブラハムの神が慈しみ イエス・キリストが大切にしたのは難民(寄留者)ややもめ そして孤児でした。法に背いてまでも初代教会の人々がこのような人々とともに歩んだのは申すまでもありません。

新しい年が始まりました。行手に何が待ち受けているのか定かではありません。しかし年始の喜びがすでに歳末の安らぎを先どりしていると受けとめながら この一年を主なる神に委ね種々の束縛や偏見から解放されて泉北ニュータウン教会はあゆみたく存じます。みなさまのお祈りをお願い申しあげます。