2025年6月22日日曜日

聖霊降臨節第3主日礼拝を献げることができました

おかげさまで梅雨の中休みの猛暑日でも守られて 聖霊降臨節第3主日礼拝を献げることができました。
 

『聖書』は『使徒言行録』17章30〜34節のテキストをもとに ギリシアの都市アテネを訪ねた使徒パウロが アレオパゴスの広場でメッセージを語ったのにも拘わらず 死者の復活に話が及ぶと集う人々の殆どには嘲笑や無理解を招いたとの話で始めました。

かつて使徒パウロのアテネでの宣教は パウロ主義に批判的な現代の研究者や牧会者には「失敗した」または「うまくいかなかった」と評される場合が目立ちました。しかし『使徒言行録』の書き手集団はこうした現代的な成果主義に通じる評価には関心を寄せません。むしろ「アレオパゴスの議員ディオニシオ」「女性ダマリス」「その他の人々」がパウロのメッセージに触れて入信した者がいたと記します。

思えば古代ギリシアの都市アテネは城壁に囲まれた都市(ポリス)のなかで市民による話し合いにより政治が行われる民主制で運営されていたとされます。しかしその民主制とは一切の労働を人格を認められず売買された奴隷に委ねて成立しており 現代の民主主義とは全く異なります。

イエス・キリストの教えに触れて受け入れた人々はそのような身分制度から解放された世界へと羽ばたいていきました。キリストの祝福はすべての人々に等しく臨むからです。支配する側もされる側もそのような抑圧による関わりから解放されてあゆむにいたります。

期せずしてわたしたちもまた「分かる」事柄はよいことで「分からない」案件は退けるべき事柄として受けとめがちです。しかし人生のすべてが説明され 分かりきった気になるのも浅薄な話です。

「人生曰く不可解」だからこそ老若を問わず胸がときめくのであり そのときめきの果てには死を乗り越える「復活」の出来事があると『聖書』は語ります。むしろ「分かりきった態度」に内在する傲慢さをイエス・キリストは誡めるのではないでしょうか。

礼拝での「執り成しの祈り」では沖縄慰霊の日や世界のあちこちで起きている紛争や戦争には勝者がいない旨を踏まえて世界の平和のために祈りを献げました。
 

礼拝後は「たけしろみんなの食堂」と(福)地球の園 定例評議員会を行いました。多くの方々に教会とこひつじこども園・放課後等デイサービスこひつじが支えられていると実感し感謝の念にあふれた一日でした。みなさまに主なる神の祝福がますます豊かに臨みますよう祈ります。