2025年11月2日日曜日

2025年11月9日(日) 礼拝 予定

     ―幼児祝福式礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神のこどもたちに気づかされて」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』12 章18~27
(新約86頁)

讃美=467.461.21‐26.


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。
 

「永眠者記念礼拝」「墓前礼拝」を執り行いました。

おかげさまで本日教会では午前には永眠者記念礼拝 「教会の活動を考える会・伝道委員会」をはさんで「泉北ニュータウン教会墓前礼拝」を執り行い さる教会員の納骨式を執行いたしました。
 

わたしたちの教会の祝祷の冒頭には「主なる神のみもとに安らう兄弟姉妹とともに」との文言を加えています。それはイエス・キリストを通して育まれる交わりとは世にある者のみならず 天に召された者とも ともに神の恵みを讃美しているとの思いから生まれています。

概して在来の日本にある宗教では大切な家族を失った悲しみや痛みを「忘れよう」とする態度に力点が置かれている模様ですが 『聖書』に立つわたしたちの信仰は 譬えいかなる最期を迎えたとしても世にある生涯を「まっとうした」と捉えます。そして世にある生を新しい復活のいのちへと結びつけ 深く心に刻みます。もちろん死に伴う絶望や痛みや苦しみは避けられませんが その苦難を十字架刑に処せられたイエス・キリストが担ってくださったとの理解に立ちます。
 

本日は天候にも恵まれ 墓前礼拝の行われた堺公園墓地には多くの方々がお集まりくださりました。

密度の濃い一日のプログラムでしたが さしたるハプニングもなく久しぶりに集った方々の喜びは何ものにも代え難い宝となりました。

死はいのちへの転換点であるとの理解を参列者とともにし 再会の時を楽しみにしました。

みなさまの新しい一週間に 死をも乗り越えるいのちの主イエス・キリストの祝福と平安とがともにありますように祈ります。次週聖日には幼児祝福式礼拝が控えております。こちらも覚えてお祈りください。


2025年10月26日日曜日

2025年11月2日(日) 礼拝 予定

    ―永眠者記念礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「死はいのちへの転換点」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』7 章14~23
(新約74頁)

讃美=520.519.21‐26.


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降誕前第9主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕前第9主日礼拝を献げることができました。世間ではハロウィンの風習があるなかで この十年 とりたてて特別な行事は行わないものの 泉北ニュータウンでは「宗教改革記念礼拝」と銘打ち礼拝を献げてまいりました。
 

本日の礼拝では「神が結び合わせたものを人が引き離してはならない」と結婚式で新郎新婦の交わす約束が『マルコによる福音書』の「離縁をめぐる人の子イエスと律法学者との問答」に由来するとの由来を確かめました。その上で 現代でいう「当事者なき法曹関係者の議論」にイエス・キリストが劣位とされていた女性の当事者の深い痛みとともに臨んでいた態度を確かめながら、神の愛が誰とともにいつ注がれるのかを確かめました。

政治的には新たな内閣が発足しながらもひとり親の家庭は困窮を極めています。民間の「こども食堂」に始まる市民運動も物価高のなか飽和状態を迎えているところもあります。

泉北ニュータウン教会と連なる「たけしろみんなの食堂」も懸命に地域に奉仕しておりますが やはり一層の支援を必要としています。
 

ハロウィンと同様のイベントと化しがちなブライダル産業に与することなく キリストの教会は「引き離してはならない」との宣言が『聖書』に属しながら 神の前に等しく並び立つ隣人相互の交わりの基であるとの文脈を無視するわけにはまいりません。

今朝の礼拝では神の前に対等な夫婦の交わりを雛形として教会共同体が堅く立つとの理解を新たに確かめました。

2025年も残りふた月となりました。教会のわざがますます祝福される候を迎えます。

みなさまにおかれましては新しい一週間 新しいひと月に主なる神のますますの祝福と正義が臨みますよう祈ります。公正な政治と判断が主なる神とともにありますように。

2025年10月19日日曜日

2025年10月26日(日) 礼拝 予定

   ―降誕前第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「出会いは神こそがなせるわざ」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章2~12 節
(新約81頁)

讃美= 187.Ⅱ-167.21-27.


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聖霊降臨節第20主日礼拝を献げることができました

おかげさまで本日は聖霊降臨節第20主日礼拝を献げることができました。本日は特別伝道礼拝として二年前に天に召された故・渡辺敏雄牧師のご学友である高木総平牧師をお招きして主なる神を讃美しました。
 

高木総平牧師のお話ではASEANから除かれたフィリピンの貧困層のこどもたちよりも精神的に行き詰っているのは東アジアの日韓であり その隙をついて様々なカルトが幅を利かせてきたとのことでした。

少なくない臨床心理士が指摘するには「わが家には仏壇も神棚もない。そもそも見えない事柄が大切だとの話を聴かなかった」との話を自死寸前にいたるまでの状況にいたった青少年から聞いたとのことでした。
 

高木総平牧師からのお話にあらためて襟を正すとともに 教会の伝道目的とは単に教勢を強めるという浅薄なものではなく 人と較べなくては生きられないと主張する社会に いのちの固有性としての豊かさを示すところにあると再確認いたしました。

聖日礼拝後には高木総平牧師を囲む懇親の時を授かり バイタリティ溢れる高木牧師のお働きと 渡辺敏雄牧師との友情を窺い知ることができました。この機会を備えてくださった主なる神に感謝の念あふれる一日でした。

このような交わりの拠点として泉北ニュータウン教会が用いられるならばこれほど嬉しいことはありません。

新しい一週間 主なる神がみなさまとともにおられると確信し ますますの祝福を祈ります。

2025年10月12日日曜日

2025年10月19日(日) 礼拝 予定

 ―聖霊降臨節第20主日礼拝―

――特別伝道礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「死からいのちへ」
高木総平牧師

聖書=
『マルコによる福音書』4 章35 節
(新約68 頁)
『ヨハネの手紙Ⅰ』3 章14 節
(新約444 頁)

讃美= 21-57.21-575.21-27.

当日のライブ中継については、
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聖霊降臨節第19主日礼拝を献げることができました

おかげさまで聖霊降臨節第19主日礼拝を献げることができました。昨日は「 こひつじこども園」の「あそBOフェスタ」が行われ、雨天と晴天がめぐる天候でも園児さんや保護者の方々が楽しめました。礼拝では職員の方々の癒しを覚えて祈りました。
 

本日の『聖書』のテキストは『マタイによる福音書』20章1〜16節。「ぶどう園🍇の労働者の譬え」と呼ばれる箇所でした。この箇所で描かれるのは、夜明け、午前9時頃、お昼頃、午後3時頃、そして午後5時にスカウトされた日雇い労働者の人々と手当を与えるブドウ園の主人とのやりとりです。一日の日当は1デナリオンですが それはどの時間帯から就労しても同額の手当が支払われます。

この物語にわたしたちは主人の金銭感覚はおかしい、またはこれこそベーシックインカムの走りだとの解釈をしがちですが 実のところは神の前には一日の就労の成果を問わず 名もない労働者の存在そのものに神は等しく祝福と恵みを備えているとは読めないでしょうか。
 

タイムパフォーマンス・コストパフォーマンスが叫ばれる中でイエス・キリストの譬えは今なお静かな力を放ちます。成果主義が幅を利かす世にあって 神が慈しんだのは孤児や寡婦 そして寄留者と呼ばれた難民でした。このような生活下におかれた人々の働きは限られ世からはしばしば蔑まれます。だからこそ「1デナリオン」の値打ちが誰にでも備えられるのです。この恵みを前にしてわたしたちは大いに励まされ 新しい一週間へと歩み始めるのです。

礼拝後には明日結婚式を控えた若いおふたりのための備えに赦された方々が奮励した一日となりました。いよいよ次世代の時代です。その前途を整える責任を痛切に感じた一日でした。

みなさまの新しい一週間に主なる神のますますの祝福を祈ります。

2025年10月5日日曜日

2025年10月12日(日) 礼拝 予定

  ―聖霊降臨節第19主日礼拝―

――神学校日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「汗水流して働く者はみな仲間」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』20 章1~16 節
(新約38頁) 

讃美= 21-521(344),504,21-27.


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聖霊降臨節第18主日礼拝を献げ 世界聖餐日礼拝として聖餐式を執り行ないました

秋雨の降るなかではありましたが おかげさまで聖霊降臨節第18主日礼拝を献げ 世界聖餐日礼拝として聖餐式を執り行ないました。
 

礼拝説教のテキストは『マタイによる福音書』19章13〜23節。『聖書 新共同訳』では37ページとなります。この箇所ではイエスに祝福していただくために連れられてきたこどもたちと人々の姿が描かれる一方で 豊かな暮らしのなかにいた青年が永遠のいのちのありようを問いながらも「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」との答えとともに人の子イエスからはその場では祝福されず悲しみながら立ち去る、という構成となっています。

それぞれの箇所を別個に扱うのも可能ですが イエス・キリストを軸に右手には祝福されるこどもたち、左手にはその場では祝福されなかった青年という構図で捉えますと 更なる解釈の可能性が見えてきます。つまり人の子イエスはその時代の経済的にはアッパークラスの青年に対して貧困層のこどもたちへ「ノブレス・オブリージュ」としての責任を示しているという理解です。

事態はそれにとどまらず『ヨブ記』で不条理な苦難に遭った義人ヨブが「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え 主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と呟く箇所に焦点が向けられます。青年がこの箇所をどのように受けとめているのか イエス・キリストは慈しみながらも厳しく問うているようにも思えます。
 

経済格差がますます拡大するなかで本日の箇所を繰り返し味わいますと 貧しくあるがゆえに暮らしに必要な知識すら十分に持てない人々に対する関わりをイエス・キリストは積極的に促しているように思えます。それは貧乏人であれ金持ちであれ「裸で生まれ、裸で帰る」ほかはない人の儚さと崇高さを同時に示しているようです。

不景気や物価高のなか外国人への不当な差別的言動や偏見が暮らしを侵食する一方で キリストの生きかたと教えに従うわざは 神の前に立つ人としての正気を保たせてくださります。

新しい一週間を始めるにあたり主なる神がともにいてくださるよう祈ります。キリストにある「正気」を確かめながらともにあゆみましょう。


2025年9月28日日曜日

2025年10月5日(日) 礼拝 予定

 ―聖霊降臨節第18主日礼拝―

――世界聖餐日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「裸で生まれ、裸に還る」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』19 章13~23 節
(新約37頁) 

讃美= 74,21-155,讃美ファイル3,21-27.


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聖霊降臨節第17主日礼拝を献げることができました

おかげさまで聖霊降臨節第17主日礼拝を献げることができました。泉北ニュータウン教会では出張の牧師に代わり吉村厚信補教師による説教が行われました。礼拝の司会はすべて教会役員が担当してコロナ禍以前の体制が教会の聖日礼拝として整えられたこととなります。
 

吉村厚信補教師は1982年に同志社大学神学部を卒業しその後一般企業に就職され、その後大学院神学研究科博士前期課程に進まれました。

一般常識の酸い甘いを噛み分けた上での礼拝で語られたのは『コリントの信徒への手紙Ⅱ』12章1〜10節をテキストとした「弱さ」を軸とした説教でした。

強さばかり求める者はやがて人々の交わりに分裂をもたらすか、または慢心のなかで時が止まったかのような変化を拒むあり方に固執するほかありません。しかし使徒パウロはその弱さを通してこそ偽りのない交わりが育まれると説きます。それは他ならぬ人の子イエスの生き方と直結しています。
  

次回礼拝から10月を迎えます。特に次週聖日は『世界聖餐日』。弱さに潜むイエス・キリストの恵みは飢えや病に苦しむ人々と食を分かち合い、いのちの糧をともにされます。

吉村厚信先生に心よりの感謝を献げます。新しい一週間 新しいひと月のみなさまの歩みに 主なる神の祝福がますます豊かに臨みますよう祈ります。

2025年9月21日日曜日

2025年9月28日(日) 礼拝 予定

        ―聖霊降臨節第17主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「弱さ」
吉村厚信補教師

聖書=『コリントの信徒への手紙Ⅱ』12 章1~10 節
(新約339頁)
讃美=21-529(333),21-579(355),21-26


説教要旨は、
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YouTube中継・編集動画メッセージは
担当者不在のため休止します。

聖霊降臨節第16主日礼拝を献げることができました

少しずつ秋の足音を遠くに聞く候 おかげさまで聖霊降臨節第16主日礼拝を献げることができました。日中の陽射しは強いながらも夜半には秋の深まりを感じます。
 

本日は「さまよう羊を追いかける羊飼い」と題し『マタイによる福音書』18章10〜14節をテキストにして礼拝を執り行いました。よく知られた「九十九匹の羊の群から離れた一匹の羊」を追いかける羊飼いの譬え話。現場で働く羊飼いと牧場の経営者の羊への関わり方の違いにも触れながら 第一次産業 とりわけ家畜とともに暮らす困難さを分かち合わずにはおれませんでした。
 

現在ではすべての国産鶏卵にロット番号が刻まれています。徹底した衛生管理が工場にも似た設備にて行われていますが かつては病に罹患した鶏が一羽でも出れば鶏舎ごと処分しなくてはなりませんでした。鶏の餌屋との関係や人件費 損害を含めた収支報告のなかで倒産する農家も少なくありませんでした。

そのような困難のなかで採算度外視で一匹の羊を追いかける羊飼い。その姿は真面目を通り越して滑稽であり 牧場の経営者に褒められようとも思っていません。
 

けれどもこの羊飼いはひたすら迷い出た一匹の羊を追いかけます。もしあなたがその羊だったらどうされるでしょうか。

組織に馴染めず商品価値すら失った羊を追い求める羊飼いに初代教会の人々は救い主イエス・キリストの姿を重ねました。十字架よりも早期の教会の象徴にはこの羊飼いを仰ぐ姿がありました。群から外れた羊たちは身を守る何の武装も武器も持ってはいません。

だからこそイエス・キリストは羊飼いとして新しい週もわたしたちを導いてくださると確信します。この羊飼いを全面的に信頼して九月最後の週を歩んでまいりましょう。みなさまに主なる神の祝福と平安がますます臨みますように。
 
*なお次週聖日礼拝では牧師出張により動画配信と礼拝中継は行いません。重ねてご容赦ください。




2025年9月14日日曜日

2025年9月21日(日) 礼拝 予定

        ―聖霊降臨節第16主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「さまよう羊を追いかける羊飼い」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』18章10~14節
(新約35頁)
讃美=239,21-402(502),21-26


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聖霊降臨節第15主日礼拝を献げました

おかげさまで聖霊降臨節第15主日礼拝を献げました。この日の聖日礼拝は長寿感謝の日礼拝とし この祝福には19名の教会員が授かりました。礼拝の後には記念写真を撮影しともに慶びを分かちあいました。
 

礼拝後には教会員だけでなく こひつじこども園職員 放課後等デイサービス こひつじ職員の職員研修を行いました。「教会とこども園(社会福祉法人)は車の両輪」との自覚に立つ事業体として祈りに始まり 祈りに終わるよき学びの会となりました。
 

聖書研究会 祈祷会 みのり会という平日定例集会がコロナ禍以前の状態にようやく戻りました。特に祈祷会にはコロナ禍以前よりも出席者が増えました。みなさまのお祈りには衷心より感謝申しあげます。
 

新しい一週間が始まります。みなさまの一日いちにちに主なる神の祝福と平和がありますように。世界の紛争地に一日も早く平和が訪れますよう祈ります。

2025年9月7日日曜日

2025年9月14日(日) 礼拝 予定

        ―聖霊降臨節第15主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「神の輝く真珠を身につけて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章44~50節
(新約26頁)
讃美=517,520,Ⅱ 192(1 節のみ),21-26


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聖霊降臨節第14主日礼拝を献げることができました

みなさまのお祈りのお陰で本日は聖霊降臨節第14主日礼拝を献げることができました。
 

礼拝では『マタイによる福音書』13章24〜30節をテキストとして「麦と毒麦」をめぐる人の子イエスの譬え話を土台にメッセージを共有しました。

隣国との緊張関係が続く地域の田畑の主人は、本来ならば食用の麦であればまだしも、その実に毒素を含んだ毒麦の種子が蒔かれるならばしもべを用いて直ちに選別の作業にかかるのが常道のはずです。

しかしこの箇所の畑の主人はしもべの云う毒麦が本当かどうか分からないからもう少し時をおきなさいと命じるのです。

わたしたち人間の認識とはときに全体を把握せず一部を以て結論を出しがちです。しかしこの譬え話に描かれる麦畑の主人は慎重を期して選別を先延ばしにします。そのなかで人の尺度ではなく神の尺度でもって事態を収拾しようとするのです。
 

わたしたちはともすれば通俗道徳や身辺にはびこる「常識」でもってことの善悪を測りがちです。しかしこの譬え話に登場する畑の主人は早急な判断には立ちません。

思えばイエス・キリストはその時代に罪人として定められた人々のために十字架で処刑され その後に復活されました。この出来事のなかで「毒麦」として定められた人々も神の恵みの養いを授かったはずです。
 

言語や習慣の異なる人々がお互いを「毒麦」呼ばわりして排除しようとする現代 神の前の自己吟味に留まらず隣人を受け入れる第一歩として自らが毒麦であるとの立場を選ぶのも悪くはありません。

自らが毒麦と思い込んだ筈の難民や無国籍の方々 また家族のなかで「はみだしもの」として腫れもののように見なしている者との関係に神の真理が宿っているとの可能性は大いにあり得ます。それはほかならぬ「いのちの可能性」です。

偏見に基づく「選別と排除」を超えて イエス・キリストが毒麦の「毒」を清めてくださります。

だからこそわたしたちは「清められた者」として 社会の歪みに根をおろす差別やいのちへの冒涜に抵抗できるのです。

酷暑はまだまだ続きますが みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますように。主なる神がすべてのいのちを祝福されています。その確信をともに分かちあいましょう。

2025年8月31日日曜日

2025年9月7日(日) 礼拝 予定

       ―聖霊降臨節第14主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「人生の実りに問われる生き方」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章24~30節
(新約25頁)
讃美=21-421(日本語),21-434(320),21-26


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聖霊降臨節第13主日礼拝を献げることができました

おかげさまで8月31日 聖霊降臨節第13主日礼拝を献げることができました。人の子イエスが血のつながる家族の訪問を受けて群衆と弟子を示しながら「わたしの母とは誰か 兄弟とは誰か」と返答し 弟子を示して「ここにわたしの母 わたしの兄弟がいる」と返答する場面が本日の箇所でした。
 

現代のガザ地区侵攻問題にも重なりますが『旧約聖書』の『ヨシュア記』や『士師記』には「聖絶」として解釈される場面があります。その箇所だけ切り抜けば特定の民族に対するジェノサイドが神の命令により正当化されるという理解。それが「聖絶」と呼ばれます。

しかし現代ではいかなる理由があろうとも戦闘員・民間人を問わず絶滅戦争や虐殺が赦されるなどという理屈がまかり通ってよいはずがありません。それでは『旧約聖書』でそのような愚行を牽制するしくみがあるとするならばそれは何でしょうか。

端的にいえばそのしくみとはイスラエルの民以外のアンモン人であれペリシテ人であれ「神の似姿」として創造され、かつすべての人々がエバとアダムの末裔であり血縁関係があるとの理解に根ざします。則ちいかなる敵対関係にあろうとも特定の民族を絶滅に追いやる行為は「カインとアベル」の物語にあるごとく「兄弟殺し」の謗りを免れないところにそのしくみがあります。日本でも戦国武将同士の婚姻関係は対立する武将相互の和睦を意味しました。

しかしこのような仕方での和解とは血縁関係に連なる者に何らかの痛みを強いずにはおれません。人の子イエスが血のつながる家族を前にして敢えて群衆や弟子をして「わたしの母 わたしの兄弟」と称したのには 係累による強いられた苦しみの解放とともに 孤独に苛まれる人々へ新しい家族のモデルを提起してもいます。

『創世記』で示された家族の最小単位とは血族による「部族」や「一族」ではなく血縁のない「夫婦」となります。そのつながりを踏まえた上で ミケランジェロの「ピエタ」にあるような母と子の絆に初めていたります。
 

家族同士のDVや親による子殺しという残酷な報道が相次ぐなか イエス・キリストの示す交わりへ依存することにより 主にある平安をとりもどすという道が拓けるように思います。課題を独りで背負い思い詰める前に まず教会やその付帯施設の門を叩いていただきたいと願います。あなたは決して独りではありません。

9月が始まります。みなさまには酷暑の疲れが癒されますよう祈ります。

2025年8月24日日曜日

2025年8月31日(日) 礼拝 予定

      ―聖霊降臨節第13主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の家族に連なる喜び」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12 章46~50 節
(新約23頁)
讃美=90,21-566(536),21-24


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聖霊降臨節第12主日礼拝を迎えられました

おかげさまで聖霊降臨節第12主日礼拝を迎えられました。説教タイトルは人の子イエスの語った教えでもある「蛇のように賢く 鳩のように素直であれ」との箇所でした。
 

初代教会への大弾圧を視野に入れながら人の子イエスは「蛇のように賢く 鳩のように素直であれ」と語ります。初代教会ではまずは「救い主はイエスとして来り賜う」との立場から、救い主の訪れを認めない古代ユダヤ教から石を投げられ排除を伴う弾圧を受けました。さらにローマ帝国からは皇帝に対する礼拝を拒否した多くの信徒が見せもののように暴力による弾圧を受けました。

しかしそのような迫害下でもキリスト教徒は恐れず愛のわざを神の愛の証しとして恐れず 隣人を愛し続けました。
 

現代のわたしたちはとかく「家庭の融和」という観点から争いを遠ざけようとします。しかしヘイト発言やレイシズムによって苦しむ人々との連帯を教会が大切にしてきたのも確かな事実です。

「蛇のような賢さ」とはキリストのもとにある「鳩のような素直さ」と不可分です。この賢さと素直さこそ キリストが語り賜うたわたしたちのあり方であり賜物です。神の愛による世の統治こそ わたしたちの愛のわざの目標であり キリストがわたしたちに約束された福音(よろこびの報せ)です。
 

まだまだ酷暑が続きますが みなさまの新しい一週間に主なる神の平和がありますよう祈ります。

2025年8月17日日曜日

2025年8月24日(日) 礼拝 予定

      ―聖霊降臨節第12主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「蛇のように賢く鳩のように素直であれ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10 章16~23 節
(新約18頁)
讃美=21-494(228),21-540(403),21-24


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聖霊降臨節第11主日礼拝をお献げできました

 みなさまのおかげで本日は聖霊降臨節第11主日礼拝をお献げできました。『マタイによる福音書』10章1〜15節。人の子イエスが十二弟子を派遣するとの箇所をテキストとしました。
 

 人の子イエスが派遣した十二弟子は、漁師ペトロとアンデレ、徴税人マタイ、熱心党のシモンらだけでなく「裏切者」とのラベルを貼られるイスカリオテのユダも数えられるという実に多様性に満ちた群れでした。この人々はまさしく人としてのイエスの生涯につき従いながらもその苦難の極みにはイエスのもとから離れていきます。イスカリオテのユダはその象徴です。

 しかしわたしたちはこの群れのなかに使徒パウロの姿を見ません。パウロは元来古代ユダヤ教の律法学者として初代教会に集うキリスト教徒を迫害しており その姿が物語に登場するのは『使徒言行録』に入ってからです。
 

 確かにイスカリオテのユダは人の子イエスを祭司長たちに引き渡しましたが ユダが殺人を犯したとはどこにも記述されません。他方でパウロは律法学者サウロと称していたころには数多のキリスト教徒を捕らえその殺害に賛成していたと言われます。現代人からすればイスカリオテのユダよりもパウロのほうが罪深いように思われます。

 実際のところイスカリオテのユダを加えた十二弟子はイエス・キリストの苦難と死から遠ざかりました。他方で律法学者サウロは復活したイエス・キリストの声を聞き生涯の大転換を成し遂げ 異邦人にイエス・キリストの福音を宣べ伝えます。

 人の子イエスに従いきれなかった十二弟子は その弱さとともに各々の多様性を活かされて宣教の旅に出かけました。他方で史実上の存在としてのイエスとは面識のないパウロは人の子に従った直接の弟子からその生きざまと十字架での死 そして復活の出来事に示された神の愛を伝えるべく地中海世界を奔走しました。この二つの潮流がひとつになってわたしたちに「主なる神の平安」を注ぎます。
 

 戦後80年目の八月十五日を迎えました。わたしたちのまわりにはさまざまな断絶と対立と格差にあふれています。異なる民の交わりにある豊かな多様性でさえ否定されかねない現状があります。わたしたちはあらゆる軍備拡大とヘイト運動から距離をおき 主なる神に祝福された交わりを耕してまいります。「あなたがたに平和があるように」との挨拶をイエス・キリストは弟子に教えられました。その挨拶を交わすための祈りを献げる一週間を始めたく存じます。

 みなさまに主なる神の祝福がますます豊かに臨みますよう祈ります。

2025年8月10日日曜日

2025年8月17日(日) 礼拝 予定

     ―聖霊降臨節第11主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「十二弟子が旅立つとき」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』10章1~15節
(新約17頁)
讃美=21-466(404),21-529(333),21-24


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

聖霊降臨節第10主日礼拝を献げることができました

みなさまのお祈りのおかげで聖霊降臨節第10主日礼拝を献げることができました。礼拝のテキストは『マタイによる福音書』9章9〜13節、当時は賎業であった徴税人マタイ(福音書の書き手集団の人々とは異なります)を始め「大勢の罪人」も多く集まった席で食卓を囲んだ人の子イエスによる「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」との言葉のもと交わりを育む場面でした。
 

 『新約聖書』の物語の文脈で徴税人が人々から嫌われていたのは察せるものの食卓に集まった「大勢の罪人」各々の姿がわたしたちには今ひとつ曖昧です。

しかしながら福音書の世界では「法に触れた」人々だけでなく不治の病やこころの病による障がいを身に帯びた人々をも「罪人」として定められていました。このような人々が一般の交わりから遠ざけられていた事情を踏まえると イエス・キリストを囲む交わりが一般には「異形の者の集い」の体であったと偲ぶこともできます。
 

戦争を敗戦という仕方で終えたわたしたちの日常には絶えずその影がつきまとってきました。サンフランシスコ講和条約により恩給の対象から外され「傷痍軍人」としてアコーディオンの物悲しげな旋律とともに白衣を着て生活支援を訴えていた人々・核兵器により重度の火傷や放射線障がいのなかで退けられていった人々・戦後に「特攻崩れ」として荒んでいった人々・戦災孤児としてなりふり構わず日々をしのがなくてはならなかったこどもたち。決して「昭和」には細かな考証による映像化もドラマ化もできなかった声なき叫びは実のところ高度経済成長期にも響いて止みませんでした。

徴税人マタイの家でイエス・キリストとともに食卓を囲んだ人々の姿を わたしたちは幼い日の記憶に重ねます。「新しい戦前」と「終わらぬ戦後」の重なりを思い起こします。

しかしこの「異形の者の集いと交わり」のなかにこそ神の愛による統治、すなわち神の国の姿のかけらが散りばめられています。昨年の「日本原水爆団体協議会」のノーベル平和賞受賞は次の点で画期的でした。すなわち世界で活躍の目立った歴史的な偉業を達成した人物でも 高名な篤志家でもなく 戦後79年間にわたり黙々と平和のためにあゆんできた原水爆の被害者のあゆみが全世界に発信されたのです。その結果 これまで原子爆弾の実戦使用を正当化してきたアメリカ合衆国でさえ若い世代には疑問と新たな問いの提起にさえなりました。
 
わたしたちが目を背けてきたり 公言できなかった日常のなかにこそ「神の国の断片」という希望が散りばめられています。そのかけらを集めてともにするのもまた礼拝の尊さにつながります。

酷暑と豪雨に苦しむこのごろの夏ですが だからこそそのような「神の国のかけら」を持ち寄って 愛の証しを立てていきたいと願います。

自然災害の危機が叫ばれる昨今だからこそ わたしたちはイエス・キリストを信頼する平安を大切な方々と分かちあいましょう。

2025年8月3日日曜日

2025年8月10日(日) 礼拝 予定

    ―聖霊降臨節第10主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「病の人を招く主イエス・キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』9章9~13節
(新約15頁)
讃美=21-371,21-402(502),21-24(539)


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

聖霊降臨節第9主日礼拝 平和聖日礼拝を献げることができました

みなさまのお祈りのおかげで聖霊降臨節第9主日礼拝 平和聖日礼拝を献げることができました。満洲事変以来15年にも及んだアジア・太平洋戦争の敗北を大日本帝国が認めてから80年を数える今年です。
 

テキストは『マタイによる福音書』8章5節から13節。病に苦しむ僕(しもべ)を案じたローマ帝国の百人隊長(小隊〜中隊を指揮する下級将校)の願いを聞き入れたイエス・キリストがその僕を癒やすという物語の解き明かしとなりました。
 

戦後80年の今となりますと 戦争体験者といえども戦火の嵐をくぐり抜けた「こどもたち」の世代が中心となり 従軍経験者の数は極端に少なくなります。実体験のない戦争論はいきおい安っぽいロマン主義的な物語をもたらし「もしもハイオクタンの燃料があれば日本の戦闘機は米国に勝っていた」というような仮想戦記をもたらしがちです。しかし実際にはそのような燃料の兵站が絶たれたからこそ敗戦となった現実を見ずに再軍備や核武装を語る政治家が後を絶ちません。

むしろ人の子イエスは本来ならば敵となるはずのローマ軍の下級将校の願いを聞き入れてその僕の病を癒しました。イエス・キリストはこの時点で「愛敵の教え」を自ら証ししています。

ひょっとしたら兵卒にもならかった一軍属の僕に向けられた百人隊長の願いは 負傷し手に負えなくなった兵士に安楽死を強要した日独ソ聯・連合軍の将校とは態度が全く異なります。慢性的な紛争が続くなか、部下を想うこの祈りをイエス・キリストは受け入れました。

パレスチナ、ウクライナ、インドシナ半島と銃声のもと民間の老若男女・こどもたちが犠牲になる今こそ、イエス・キリストの垣根を越えた神の愛に根ざす働きが求められているのではないでしょうか。現在のところ日本には多くの国から人々がお越しになり 医療・福祉・小売店の現場でお働きになっています。平均年齢50歳と言われる逆三角形の人口を筒形のかたちにするためにもお働きになる方々を悪しざまに扱ってよいはずがありません。

わたしたちは戦争の被害者であるとともに加害者でもあります。加害者としての責任を自覚しながらも海外からの旅人を受け入れたいと願います。差別は排除につながります。しかし区別は本来なら相手への理解に基づいた配慮へとつながります。そのような態度をキリストに従うなかで体得し 明日への希望の光を灯したいと願います。

2025年7月27日日曜日

2025年8月3日(日) 礼拝 予定

    ―聖霊降臨節第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「平和を実現するイエス・キリスト」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』8 章5~13節
(新約13頁)
讃美=21-561(420),531,
「主の食卓を囲み」(讃美ファイル3),21-24(539).

説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。