2025年3月2日日曜日

2025年3月9日(日) 礼拝 予定

      ―受難節第1主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「どんなときにも主なる神はいる」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4章1~11節
(新共同訳 新約4頁)

讃美= 21-561(420).
21-566(536).21-88(255).


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

降誕節第10主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第10主日礼拝を献げることができました。春の訪れを思わせる雨天のもと、水仙や紅梅白梅のアンサンブルに励まされる朝でした。
 

聖日礼拝では『マタイによる福音書』14章22〜36節を味わいました。この箇所では劇的な「湖水のおもてを歩くイエス」の姿に現代人はつい関心を寄せてしまいますが、本日はむしろイエス不在の舟のなかで一晩中荒波にもまれ恐怖する弟子と、山でひとり献げられるキリストの祈りに注目しました。
 

『旧約聖書』でも『新約聖書』でも「激しい風に吹かれる水のおもて」とは混沌とした無秩序な世界を暗示すると申します。年度末の3月を迎えて多忙さを極める日々のみならず、当事者相手に人命を「カードゲーム」扱いする大国の指導者にあきれ果てた先週でした。
 

しかしそのような混乱におかれた弟子の乗る舟を、祈りという命綱で自らと堅く結んでくださります。舟には生まれたばかりの教会の交わりが示されています。
 

わたしたちはこれまでコロナ禍という激しい風のなかで教会の目指す岸辺をしばしば見失いかけました。しかしそのたびに主なる神は教会の新しい道筋、暮らしの新しい道筋をお示しになりました。その道は細く狭いものでしたが、決して閉ざされはしませんでした。
 

礼拝後には「教会の活動を考える会・伝道委員会」が設けられ、11名が出席しました。朝焼けに映える湖の彼方には、新たな岸辺が待っています。

今週には「灰の水曜日」があり、教会の暦は受難節を迎えます。キリストの苦しみはわたしたちの苦しみを癒やすに余りあるものでした。十字架の彼方に映るいのちの復活の光を待ち望みながら、この季節を過ごしたく願います。みなさまにキリストの祝福がますます豊かに臨みますように祈ります。

2025年2月23日日曜日

2025年3月2日(日) 礼拝 予定

     ―降誕節第10主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「わたしたちのめざす岸辺」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』14章22~36節
(新共同訳 新約28頁)

讃美= 21-529(333).
461.21-88(Ⅱ255).


説教要旨・動画、ライブ中継については、
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礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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降誕節第9主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第9主日礼拝を献げることができました。梅の花は満開ですが、他方でまたもや寒波の訪れを聞く朝でした。
 

そのような朝、教会玄関の脇にフクロウの骸がうずくまるように横たわっていました。泉北ニュータウンは自然豊かだとは聞きますがさすがにどのような経緯でそうなったのか知る由はありません。

人間の生活領域が里山や自然林を侵食した結果そのようになったのか、それとも流行りの「いきものカフェ」から自由を求めて羽ばたいた結果だったのかは定かではありません。動かなくなったミネルヴァにも似た姿を前に悲しみがふと胸をよぎりました。


過ぐる週はいのちの重さと神の奇しきわざを幾度も思い起こさずにはおれませんでした。教会に連なる交わりには日常を突き破るかのようにいのちの問いかけを授かった方々もおられました。

しかし神はそのように助けを呼び求めて叫ぶ声を決して聞き逃されません。天にいのちを見送る悲しみに涙し、世に救われたいのちに涙した過ぎにし週でしたが、そのようなわたしたちを圧倒する神の祝福に背中を押されて、新しい週、新たな月を迎えたく存じます。みなさまの一週間に、イエス・キリストのますます豊かな祝福を祈ります。

2025年2月16日日曜日

2025年2月23日(日) 礼拝 予定

     ―降誕節第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神の癒しに潤わされて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』15章21~28節
(新共同訳 新約30頁)

讃美= 
21-437(244).Ⅱ-167
21-29(544).


説教要旨・動画、ライブ中継については、
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礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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降誕節第8主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第8主日礼拝を献げることができました。二月も後半に入り、教会員・関係者問わず年度末と年度始めの備えに忙しいとは存じます。
 

それでも教会・こども園園庭に咲く満開の紅梅の梢にはメジロがとまり花びらをついばんでいました。
 

冬から春へと移るこの季節には気圧が急上昇・乱降下しわたしたちの社会生活には少なからず影響を及ぼします。けれどもそれは新しいいのちの胎動にも似た営みです。
 

本日は人の子イエスがいかに『律法』『預言者』つまり今日でいうところの『旧約聖書』を尊んだかを分かちあいました。

時に目を覆いたくなるような生々しい物語の描かれた『旧約聖書』ですが、人の子イエスはそのような神に逆らう者の姿を斬り捨てず、その現実に神の愛を以て向きあいました。

神の約束は人の混乱を通して完成するとのことばがありますが、わたしたちの日ごとの現実も『旧約聖書』の物語に劣らず混沌とした状況に映ります。
 

だからこそ「心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る」との祝福に満ちた教えが満たされます。生きづらさを抱えた人々にこそイエス・キリストの恵みは臨むのです。

心身ともに傷みを抱えた方々を主なる神はお招きになります。一緒に神とともにあゆもう、とイエス・キリストは呼びかけています。新しいいのちの芽吹きがそこにはあります。

みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますように祈ります。一日いちにちの暮らしのなかで、ともに祈り、ともに涙し、ともに喜ぼうではありませんか。

2025年2月9日日曜日

降誕節第7主日礼拝を献げられました

おかげさまで降誕節第7主日礼拝を献げられました。昨日までは立春と大寒が逆転したような風と寒さを迎えた泉北ニュータウンも、今朝は穏やかな陽差しにつつまれての礼拝でした。

ただしやはり気にかかるのは自身の被災地はじめ豪雪に悩まされた地域に暮らす方々です。温暖な堺でさえ突き刺すような寒さでしたから雪害に悩む地域の教会での礼拝はさぞかし困難が伴ったかと拝察します。
 

本日の説教のテーマは「人の子イエスが譬えを用いる理由」でした。イエス・キリストが教えを語る際には譬えを多く用いますがその前提としては学のあるなしを問わず当事者の生活を尊ぶ態度があったように思います。難解な教えをそのまま語るのではなくて相手の生活言語を尊ぶ謙遜な姿勢がイエス・キリストの教えには必ず備えられていたように思います。


わたしたちはときおり自らの傲慢さにより意思疎通に失敗したり、困難になったりとさまざまな問題に直面しますが、それこそ『旧約聖書』『創世記』のバベルの町の課題と大差はありません。高い塔を建てて尊大になるのではなく、まずはへりくだり相手の話に耳を傾けるところから主にある交わりを育みましょう。そのときイエス・キリストは「目から鱗が落ちる」ような出会いをもたらしてくださるはずです。
 

礼拝後には教会学校で凧揚げ大会を楽しみました。ご支援くださった方々に心より感謝申しあげます。新しい一週間がみなさまにとってますます祝福されますように祈ります。ありがとうございました。


2025年2月16日(日) 礼拝 予定

    ―降誕節第8主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「混沌とした時代にこそ輝く光」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章17~20節
(新共同訳 新約7頁)

讃美= 
21-518(361).124.
   21-29(544).


説教要旨・動画、ライブ中継については、
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2025年2月2日日曜日

2025年2月9日(日) 礼拝 予定

   ―降誕節第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「いのちに響く言葉を尊ぶイエス」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章10~16節
(新共同訳 新約24頁)

讃美= 
21-403(Ⅰ.453). 
533. 21-29 (544).


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降誕節第6主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第6主日礼拝を献げることができました。教会の庭の梅のつぼみは次々と花開き、かぐわしい香りをはなっています。
 

礼拝では「イエスの宮清め」、則ちエルサレムの神殿で両替商や貧しい者のための献げものである山鳩を売る人々を追い出し、その時代の律法学者や祭司の怒りを買う一方で、視覚や肢体に不自由のある人々を癒し、こどもたちから「ダビデの子ホサナ」つまり「「さすがやなあ、救い主は!」と歓声を浴びるとの場面を扱いました。
 

人の子イエスがエルサレムの神殿に入ってから癒しのわざを行なう描写、誰よりもこどもたちから喝采を受ける箇所から、イエスが行なった宮清めとは暴力行為ではなく、祈りの場所を「整える」わざであるとの理解をともにしました。

パウロはわたしたちの身体を神の愛である「聖霊」の宿る神殿だと理解しましたが、わたしたちもとかく日々のわざに追われて「神殿」として身体を整えるわざを忘れがちです。その意味では実に愚かであると反省することしきりですが、その都度イエス・キリストに身を委ねて心身ともに整えていただきたいと願います。
 

礼拝後には定例役員会が開かれ、今年度の反省に重点をおきながら次年度への展望の構築へと着手しました。

寒暖の差厳しくなる季節となりますがみなさまに置かれましては主なる神の癒しと平安が臨みますように祈ります。主なる神がともにいる二月となりますように。

2025年1月26日日曜日

2025年2月2日(日) 礼拝 予定

  ―降誕節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「決して譲れないいのちの大原則」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』21 章12~17 節
(新共同訳 新約40頁)

讃美= 
21-494(Ⅰ.228). 
121. 21-29 (544).

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降誕節第5主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第5主日礼拝を献げることができました。教会の庭にある梅のつぼみもふくらみ、今朝は今年初めての梅の花を愛でることができました。
 

俗に「桜伐る馬鹿 梅伐らぬ馬鹿」と申します。江戸時代に人工的に交配された結果生まれたソメイヨシノは種により育つのではなく、挿木により広がってまいります。春一斉に開花するのは今日的にはクローンであるがゆえの現象だとされ、病害虫には弱いとされます。
 

他方で梅には多くの品種があり、生命力も旺盛で枝の手入れをしないと却って日当たりが悪くなるので枝を程よく伐採しなくてはなりません。多様性を保てるこその強みだと申せましょう。
 

最近の世界を鑑みますと、何かにつけてこの生物的多様性のみならず社会的多様性を否定的に受けとめる気配が生じつつあります。しかし生命力とは抑圧されればされるほど強靭になるとの性質も併せ持っています。

囚われの身となった洗礼者ヨハネから、神の愛の訪れを説きつつ証しする役目を託された人の子イエス。その交わりは洗礼者ヨハネ以上の恵みの力を発揮して人々のいのちをより豊かに花咲かせます。

一月最後の礼拝となりました。さまざまなライフステージの変化や受験などのハードルに向き合う方々も多いかと存じます。このような状況下では日常では考えられない圧力や不安に襲われる場面もあることでしょう。

しかしこのようなわたしたちにイエス・キリストは「安かれ」と仰せになります。多様性をより深めつつ、淡々としかし確実に、次年度へのステップを進みたく願います。病の床にある方々、療養中の方々に神の癒しと支えがありますように祈ります。

2025年1月19日日曜日

2025年1月26日(日) 礼拝 予定

  ―降誕節 第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「不安と恐怖からの解放の知らせ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4 章12~17 節
(新共同訳 新約5頁)

讃美= 
308. 21‐475(352).
21-24 (539). 


説教要旨・動画、ライブ中継については、
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降誕節第4主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第4主日礼拝を献げることができました。暦では大寒を迎えましたがあたたかな陽の光につつまれた朝を迎えました。
 

説教のテキストは『ルカによる福音書』5章12節以降に記されている、漁師がイエス・キリストにすべてを捨てて従うという場面。人の子イエスのことばに従い昼ひなかに網をゲネサレト湖の沖合で投じたところ、漁師たちは予想に反し豊かな収穫を授かったとの物語です。古代でも現代でも漁業はまことに命がけの仕事でした。
 

不思議なことに、大漁だった事実を漁師たちは素直に喜べず、イエスにひれ伏して「主よわたしから離れてください。わたしは罪深い者だからです」とつぶやきます。その描写には、人の子イエスの不当な身柄拘束の際に逃げ出したペトロの姿が隠されていました。紀元80〜85年ごろに成立したとされる『ルカによる福音書』の書き手集団は、弟子たちのキリストの処刑の際の振舞いを覚えているのです。その後の失望に満ちた日々からの立ちなおり、やりなおしの姿もまたこの場面には重ねられているともいえるでしょう。日曜日の礼拝は、そのような「やりなおし」から始まる新しい出発を意味しているのかもしれません。阪神・淡路大震災から30年を経てなおも苦しみの途上にある方々とのともにある日ごとの祈りと出発が求められているようでした。
 

礼拝後には「アメリカの教会巡り」と題されたお話を、泉北ニュータウン教会の交わりを大切にしてくださるN兄から学び、豊かな一日となりました。衷心より感謝申しあげます。

みなさまの新しい一週間に主なる神のますますの祝福がありますよう祈ります。感謝。

2025年1月12日日曜日

2025年1月19日(日) 礼拝 予定

 ―降誕節 第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「漁師からキリストの弟子へ」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』5 章 1~11 節
(新共同訳 新約 109頁)

讃美= 
21-495,(310). 
21‐306(1.2.4.5.), 
21-24 (539).


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降誕節第3主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第3主日礼拝を献げることができました。本日のメッセージでは人の子イエスが洗礼者ヨハネから「水によるきよめの洗礼」を授かるという場面でした。他の人々には「きよめ」であったとしても人の子イエスには「きよめ」を必要とする人々とその身を同列に置くのであり、まさしく神の祝福のもと救い主キリストが大地に立ったことを示す記事だとのお話でした。
 

礼拝では「二十歳の祝福式」を執行し、1名の若者が神の祝福を授かりました。確かに今は混沌とした世の中ではあり、前途をはかなむ気持ちも分からなくはありません。しかしながらイエス・キリストの祝福を授かっているわたしたちには、どうすればよいのか分からない世にあってなおも希望の光を備えられているとの確信を分かちあいました。
 

讃美歌の歌詞も『聖書』の翻訳も時に応じて変わります。しかしそのことばに示された神の愛は決して変わりません。その愛に根を下ろして新たなあゆみをともに始めたいと願います。老若を問わずさわやかな風のなか新しい一週間を進もうではありませんか。みなさまに主なる神がともにおられますように。
 

2025年1月5日日曜日

2025年1月12日(日) 礼拝 予定

―降誕節 第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 


説教=「救い主、大地に立つ」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』3 章 13~17 節
(新共同訳 新約 4頁)

讃美= 21-268(97). 21‐474,
   21-24 (539).



説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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降誕節第2主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第2主日礼拝を献げることができました。教会の付近に転居してこられた方、懸命になって礼拝に出席された方、様々な方々が招かれて主なる神を讃えました。
 

『マタイによる福音書』でイエスの父ヨセフはエジプトからナザレへと足を進めた際にヘロデ大王の息子の統治下を避けてベツレヘムに引きこもりました。人の子イエスの幼少年期が鮮やかに描かれる『ルカによる福音書』とは異なり、この「引きこもり」の中で家族は次のライフステージを迎えます。そしてそのとき、イエスの父ヨセフは福音書の舞台から静かに姿を消していきます。
 

私事で恐縮ですが、牧師は昨年暮れに齢55歳を数えました。つまり青年期の若者とは異なる「ことば」の世界での生活を余儀なくされることでもあり、この異なる人生経験や世界観を自覚しつつ青少年の人々とコミュニケーションを計らねばなりません。しかし最後は漠然とでもイエスの父ヨセフのように背中を記憶に残せればと願います。顔も名前も忘れられてもよいのです。
 

思えばイエス・キリストが人々に伝えたとされる「主の祈り」では「父」とのことばこそあれ、「神」とのことばはひと言も用いられません。その陰にはヨセフの背中があったと考えるのは読み込みすぎでしょうか。

たとえ名が知られなくても、神の愛の証しは存分に可能です。キリストへの道備えはその匿名性のなかでこそ光を放つようにも思います。礼拝後には「教会の活動を考える会・伝道委員会」を開催し、新年の教会のあり方を協議しました。また、聖日礼拝を陰ながらお支えくださった こひつじこども園の若手職員にも衷心より感謝申しあげます。みなさまに主なる神のますますの祝福を祈ります。
 

2025年1月1日水曜日

元旦礼拝を献げることができました

降誕節の最中、おかげさまで泉北ニュータウン教会では元旦礼拝を献げることができました。朝日を浴びて礼拝堂は光につつまれ、新しい年の訪れのあゆみを尋ねるべく『聖書』のメッセージをともに分かちあいました。
 

テキストは『ヨハネによる福音書』1章1〜5節の「初めに言(ことば)があった」で始まる箇所でした。説教では牧師が大学のチャペルアワーで触れた「ことばがあるからにはその前に神の深い思いがあったに違いない」とのフレーズに感銘を覚えたとの話から始まりました。ことば、または表現をも含めて意思疎通のためには相手の言葉に深く耳を傾ける必要があり、耳を塞ぐ傲慢さは『旧約聖書』のバベルの物語のようにあらゆる関係を混乱させてしまうとのメッセージでした。『創世記』以降の物語にある、知らず知らずのうちに傲慢になる人間のありようへの楔ともなる救い主イエス・キリストの誕生を、クリスマスの余韻の冷めない元日も互いに祝いました。
 

礼拝後には礼拝堂に集った方々が交わりを深め、元旦礼拝を覚えながらも欠席を余儀なくされた方々の健康を祈り、1月5日に控えている聖日礼拝の備えをした後に解散しました。
 

時節柄感染症に悩まされている教会員のご様子も伝えられました。新しい年、みなさまが何よりもお健やかでありかつ神さまの平安に満ちた時を過ごされますよう祈ります。さまざまなライフステージの変化があるには違いありませんが、神はいつもともにいてくださいます。安心して時を見極めましょう。