2025年4月27日日曜日

2025年5月4日(日) 礼拝 予定

 ―復活節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「愛するために生き直す」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12 章38~42 節
(新約23頁)

讃美=21-327(151). 
21-464(534).21- 29(544).

説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

復活節第2主日礼拝を献げることができました

穏やかな朝日のもと、おかげさまで復活節第2主日礼拝を献げることができました。
 

本日の礼拝メッセージは キリストの復活により表向きには人生を台無しにされた墓の番兵たちのその後を考えました。その折には人の子イエスに僕(しもべ)を癒された百人隊長や「この人は本当に神の子だった」と呟いた別の百人隊長の物語を重ねて 番兵はエルサレムの祭司長や長老からの収賄を超えた力をキリストとの関わりから授かったとの使信を分かちあいました。
 

また嬉しいことには新しい転入会者をお迎えできました。不思議にも放課後等デイサービス こひつじでお迎えしているお子さんのご家族。泉北ニュータウン教会でキリストを讃美し主にある交わりを深めてくださるのは何よりの喜びです。

礼拝後には今年度より始めた交わりの時を授かり 教会員の方々の粋な計らいにより新入会員の歓迎会を行いました。コロナ禍後の教会はどこも礼拝出席者の人数にお困りだと聞くところでありわたしたちも例外ではありません。けれどもだからこそ主にある一週間の喜びのカケラをみんなで集めて分かちあいたいと強く願っています。キリスト・イエスは甦られました!みなさまに主なる神のますますの祝福を祈ります。
 

2025年4月20日日曜日

2025年4月27日(日) 礼拝 予定

 ―復活節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「買収を拒む兵士たちの姿」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28章11~15節
(新約60頁)

讃美=21-325,21-326,21-24.

説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

イースター礼拝を献げることができました

みなさまのおかげで本日はキリストのご復活を祝うイースター礼拝を献げることができました。礼拝では教会学校のこどもたちによる朗読劇があり聖餐式が執り行われました。礼拝後にはこどもたちの主導によるたまご探しゲームを楽しみ主イエスのご復活をお祝いしました。
 

『聖書』にある主なる神の復活の記事は様々ですが 『マタイによる福音書』に描かれる物語は復活したイエス・キリストが「おはよう」と日常のことばを出会ったマグダラのマリア イエスの母マリアと交わします。神のみが起こし給うとてつもない出来事が続くなかで「女性たちは大いに喜んだ」と記されます。他の福音書には見られない神から授かった喜びが実にはっきりと描かれます。
 

今年度に入り先行き見えない世界はいよいよ混沌としています。社会もまた迷走の度を深めているように映りますが 復活のイエス・キリストに示されたいのちの光は決して消えることがありません。わたしたちは絶えずその光に照らされて礼拝から遣わされ 礼拝に招かれ戻ってきます。この尊い神の「いのちのルーティン」を繰り返してわたしたちはこの世界をあゆんでまいります。みなさまにイースターの祝福をこころより祈ります。いいスタートとなりますように!
 




2025年4月14日月曜日

2025年4月20日(日) 礼拝 予定

―復活節 第1主日礼拝―

―イースター礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「復活の挨拶は『おはよう』」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28 章1~10 節

讃美=146.21- 575. 
讃美ファイル3番「主の食卓を囲み」.
21- 24(Ⅰ539).

説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

2025年4月18日(金曜日) 夜 受難日礼拝 予定

―受難日礼拝―

時間:午後7時00分~

場所:泉北ニュータウン教会 カフェテリア

  

説教=「アリマタヤのヨセフの勇気」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』 15章 42~47節

讃美歌=136番 142番


当日のライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。


2025年4月13日日曜日

受難節第6主日礼拝を献げることができました

おかげさまで受難節第6主日礼拝を献げることができました。受難週がいよいよ始まり18日金曜日夜7時より教会カフェテリアで受難日礼拝を執り行います。
 

礼拝では2025年度役員任職式と教会学校教師任職式を執行しました。

本日の礼拝は教会員が棕櫚の葉を手にしつつ始まりました。『マタイによる福音書』のキレネ人シモンのあゆみに注目しました。ローマ兵に無理やり十字架を背負わされてゴルゴダの刑場までイエスをささえたのが北アフリカ・キレナイカ地方の出のシモンでした。刑場への途上でシモンが目撃したのは人々から尊敬されるはずの律法学者・祭司長・長老たちが群衆や強盗と同じように 息も絶えだえの人の子イエスに罵声を浴びせるありさまでした。
 

過越の祭りを祝いに来たはずのキレネ人シモンにはあまりにも衝撃的な体験でした。イエスの受難の出来事に期せずして巻き込まれたシモン。しかしシモンの衝撃や痛みをもイエス・キリストは一切自己弁護せずに担い シモンもまたその姿に従ったからこそ 不条理過ぎる場面で何も言わずにキリストとともにあゆんだのではないかとのメッセージでした。わたしたちの信仰のあゆみを重ねずにはおれませんでした。
 

メッセージの後には讃美とともにキリストの十字架の血潮を象徴するガーベラの花を分かちあいました。そして礼拝後には教会定期総会を開き昨年度の報告と今年度のあゆみを確かめました。
 

イースター礼拝までの一週間 わたしたちはキリストの苦難をこころに深く刻み その苦難に示された世の現実のただなかにやがて訪れる復活の光を見つめてまいりたいと願います。死の闇にピリオドが打たれて やがていのちのひかりにあふれた朝が訪れます。その時を待ちながらこの一週間を大切に過ごしたいと願います。みなさまとともに主なる神のあふれる祝福がありますよう祈ります。

2025年4月6日日曜日

2025年4月13日(日) 礼拝 予定

       ―受難節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「自分を救わなかった人の子イエス」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』27章32~44節

讃美=21-306.(Ⅱ177)
Ⅱ.-182.21-24(Ⅰ539).


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

受難節第5主日礼拝を献げることができました

おかげさまで受難節第5主日礼拝を献げることができました。本日より2025年度が始まりました。泉北ニュータウン教会では通年標語を「あなたがたはキリストの安らぎを授かる」とし 『マタイによる福音書』11章28節の「疲れた者、重荷を負う者は、私のもとに来なさい。休ませてあげよう」を主題聖句としました。暮らしの憂いや荒んだ心を抱えて生きるわたしたちの日々の只中に イエス・キリストが飛び込んできてくださった喜びを分かちあいたいとの一念からのことばでした。
  

本日は礼拝のあり方も一新されて コロナ禍前のように教会役員が司会と祈祷を献げて牧師が『聖書』のことばを解き明かす様式に近づけました。牧師の不手際で一部教会員を戸惑わせてしまった旨お詫び申しあげます。ただそのなかで も(福)地球の園  こひつじこども園と 放課後等デイサービス こひつじの職員の先生方の任職式を執行し さらには中高生新旧祝福式を執り行えたのはなによりの喜びでした。
 

『聖書』の物語は弟子ヤコブとヨハネの母親が 神の国の訪れの折には二人をキリストの最側近にしてほしいとの願いをイエスが一蹴する場面でした。神の国の私物化につながるこの願いに わたしたちは今や中抜きなどが当たり前となった神の恵みの民営化を観る思いがいたしました。そのようなこの世の競争社会の延長線上には神の愛に通じる道は絶たれています。それは何よりも十字架のイエスの姿に明らかです。
 

わたしたちもその事実に心して 「使える」から「仕える」自由をイエス・キリストから授かりましょう。奉仕には自由があり愛があり信頼があります。これが命令への絶対服従とはまったく異なる特徴です。各々の新しい年度のあゆみがますます豊かに祝福されますよう祈ります。
 

2025年3月30日日曜日

2025年4月6日(日) 礼拝 予定

       ―受難節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「たがいに支えあうために」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』20章20~29節

讃美=21-57(Ⅲ.5).
   21-463(Ⅰ 494).
   21-24(Ⅰ 539)

説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

受難節第4主日礼拝を献げることができました

おかげさまで受難節第4主日礼拝を献げることができました。奇しくも2024年度を締めくくる聖日礼拝ともなり サクラやタンポポの花咲くなかでの礼拝となりました。いよいよ春の訪れです。
 

本日は『マタイによる福音書』17章1〜13節にある「人の子イエスの山上の変容」の箇所でした。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて高い山へと登ったイエスの顔が太陽のように輝き 服は光のように白くなります。そして『旧約聖書』の物語に登場するモーセ、そして預言者エリヤと語らうという筋立てです。イエスの時代にはすでに物語上の人物となっていたモーセは『律法(トーラー)』、エリヤは『預言者の書(ネビイーム)』を示すとも言われます。いずれにせよイエスの教えは『旧約聖書』の教えや物語が徹底的に裏づけられていました。それではわたしたちがその書物を開いてみるとどのような世界が広がっているというのでしょうか。
 

それは「神なしには」グロテスクだ としか呼べないような展開も含めた人間模様に満ちています。もしもわたしたちが道徳的な規範を人の生きざまだけに求めるならば 誰も該当する人物が見当たらないような世界です。
 
しかしながらイエスはその物語のなかに 隠された神の愛を見いだし自らの苦難を通してその愛を語り 実践しました。人の子イエスの輝きは 人間の醜悪さを映しだしながら その苦しみを分かちあい 我がものとするあゆみでもありました。

この年度の移り変わりにあたって 新年度がそのまま喜ばしく始まるという方々よりも さまざまな戸惑いや迷いにあふれているという方々も多いのではないでしょうか。けれどもわたしたちはその戸惑いがあたかもないかのようなふるまいが「ふさわしい」と捉えがちです。モーセやエリヤは神をうたがう民に蔑ろにされたという記事を忘れるわけにはまいりません。

サクラの樹もタンポポも 何があるのか分からない地面に深く根をおろしてはじめて花を咲かせます。またモクレンの花は散ればこそ豊かに葉を生い茂らせます。
 

イエスの姿の変容は 混乱する世にあって わたしたちが何に根をおろし 誰を見つめて新年度を始めるのかをも示しています。未来への一歩を イエスとともに踏み出しましょう。

2025年3月23日日曜日

2025年3月30日(日) 礼拝 予定

       ―受難節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の愛は苦難を貫いて輝く」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』17章1~13節

讃美=526.515.21-88(Ⅱ255).


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

受難節第3主日礼拝を献げることができました

おかげさまで受難節第3主日礼拝を献げることができました。本日のテキストには、使徒ペトロの人としてのあり方の曖昧さが描かれます。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」との理解を表し イエスに「あなたは幸いだ」と祝福されながらも その直後にキリストの苦難、十字架での殺害とその後の復活を「あってはならない」と諌めたことで「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と戒められてしまいます。
 

ごく短い物語でのペトロの扱いからは 人の姿に理想の姿を追いかけてしまううわべの「信仰」の大きな問題が示されています。すなわち個人の内面の問題の枠を出ずに論じられた信仰はかくまでもろい という事実です。
 

『聖書』が信仰と呼ぶのは神からの祝福に根ざした「関係」であり それはイエス・キリストとの間柄でも同様です。相手から恵みとして先に授かるのが信仰であり それはこちらの都合を問いません。ペトロはその意味では勘違いをしています。だからこそ「鶏の鳴く前に三度イエスを否定する」という挫折と涙を通してようやくキリストの教えと生涯が示す事実を悟ります。その事実とはわたしたちが「赦された罪人」としてキリストに従うというあゆみでした。
  

今年の春分の日は3月20日でしたが奇しくもこの日は三十年前にあるカルト教団が未曾有のテロ計画を決行した日でもありました。ただ注目したいのはこの事件にいたるまでマスコミがこの教団の教祖をバラエティー番組に登場させたり「知識人」も対談を望んでいたりしたとの過ちが忘れ去られているありさまです。カルト教団に属する若者は正義を掲げてテロを行いました。他方でその被害を受けて亡くなったり障がいを引きずっている方々の時は停止したままです。
 

今 社会の歪んだ正義感は SNSでの匿名の煽動的な攻撃へと移りました。誹謗中傷を受けた人々の中には自死に追い込まれる方々さえおられます。感情的な一時の高ぶりが取り返しのつかない過ちにつながるとの警鐘は すでに使徒ペトロの過ちに示されてはいないでしょうか。
 

他者への否定ではなく 自らを苦しめる者にも神の愛を貫いたイエス・キリストこそ わたしたちが仰ぐべき救い主です。その愛に基づいて日々のあり方を問い直してまいりましょう。みなさまの新しい一週間に主なる神のますますの祝福を祈ります。

2025年3月16日日曜日

2025年3月23日(日) 礼拝 予定

      ―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  



説教=「涙と挫折こそ信仰の目覚め」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』16章13~23節

讃美=243.21-441(268).
21-88(Ⅱ255).


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

受難節第2主日礼拝を献げることができました

おかげさまで受難節第2主日礼拝を献げることができました。礼拝中継の画像は一部乱れがあるとは言え、教会員のご指導により中継動画の放送も再開できました。ご協力ありがとうございました。
 

本日の『聖書』の箇所は「見えず 聞こえず 話せず」の三重苦を抱えた人が人の子イエスに癒やされ交わりを回復したものの、その癒しのわざが悪霊の頭ベルゼブルによるものだと指摘するその時代のユダヤ教の律法学者の横槍に対する抗弁に耳を傾けました。イエスは指摘に論争をもって向き合わず「神の国の訪れ」を律法学者にも告げ知らせました。否定に対する否定ではなく「あなたたちも神の愛の力につつまれている」との力強い宣言を聞いた思いでした。
 

昨日は教会とあゆみをともにする 「こひつじこども園」の卒園式でした。28名の園児さんが節目を迎えました。幼い日の思い出はいつしか長期的な記憶となり園児さんが22世紀をあゆむようになってもこころに刻まれているでしょう。
 

世界的な乱世や飢饉の噂の絶えない昨今ですが そのなかにあるからこそ教会の交わりは豊かに祝福されると確信しています。真夜中に灯された灯火としての役割を委託されているからこそ 否定に対する否定という不毛な悪循環ではなく 苦しみを担いながら世の悲しみを喜びに変えたキリストの十字架と復活を仰ぎたいと願います。
 

70年間草木も生えないと言われた灼熱の土地に芽生えた麦の芽をわたしたちは知っています。本日の箇所で文章そのものが受動態で記されているがゆえにその存在感の薄い、三重苦のただなかにいる人をイエスのもとに連れてきた無名の人のように わたしたちも愛のわざに励みましょう。みなさまの新しい一週間に主なる神のますますの祝福と支えを祈ります。

2025年3月9日日曜日

2025年3月16日(日) 礼拝 予定

       ―受難節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「世の分断を乗り越えるキリストの愛」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』12章22~32節

讃美=Ⅱ-80.21-530(516).
21-88(Ⅱ255). 


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

受難節第1主日礼拝を献げることができました

おかげさまで受難節第1主日礼拝を献げることができました。礼拝中継の不具合から音声のみのライブとなりましたが、それ以上にキリストの受難の道を覚える候を今年も迎えたかと深く感じ入る礼拝でした。
 

『聖書』はキリストが荒れ野で悪魔から誘惑を受けるというよく知られた箇所がテキストでした。ただしこの箇所は人の子イエスが修行のためにおもむいた場ではなく、あくまでも神の霊の力によって導かれた場であるというところが大切になります。
 

悪魔は再三にわたりイエス・キリストに独占と神への不信、世界への神なき支配を語りかけますがその都度キリストは『聖書』を引用してはその誘惑を拒否します。キリストが味わった誘惑はわたしたちの日常に当たり前のように転がっていることを踏まえますと、どのような荒れ野でもキリストが苦しみをともにしながら歩みをともにしてくださるとの頼もしさを覚えます。
 

昨日までの悪が善とみなされ、分断と悲しみが世にあふれる今の世に、キリストが味わった荒れ野の試みは最終的には神の愛により勝利されるものとして描かれます。

さまざまな自然災害、戦争、金融危機の叫ばれる時代に誰を基準とするべきなのかを確かめられた礼拝でした。花咲き鳥さえずる季節、みなさまの新しい一週間に主なる神のますますの祝福を祈ります。とくに療養中の教会員の方々にイエス・キリストの深い癒しがありますように。

2025年3月2日日曜日

2025年3月9日(日) 礼拝 予定

      ―受難節第1主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「どんなときにも主なる神はいる」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4章1~11節
(新共同訳 新約4頁)

讃美= 21-561(420).
21-566(536).21-88(255).


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

降誕節第10主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第10主日礼拝を献げることができました。春の訪れを思わせる雨天のもと、水仙や紅梅白梅のアンサンブルに励まされる朝でした。
 

聖日礼拝では『マタイによる福音書』14章22〜36節を味わいました。この箇所では劇的な「湖水のおもてを歩くイエス」の姿に現代人はつい関心を寄せてしまいますが、本日はむしろイエス不在の舟のなかで一晩中荒波にもまれ恐怖する弟子と、山でひとり献げられるキリストの祈りに注目しました。
 

『旧約聖書』でも『新約聖書』でも「激しい風に吹かれる水のおもて」とは混沌とした無秩序な世界を暗示すると申します。年度末の3月を迎えて多忙さを極める日々のみならず、当事者相手に人命を「カードゲーム」扱いする大国の指導者にあきれ果てた先週でした。
 

しかしそのような混乱におかれた弟子の乗る舟を、祈りという命綱で自らと堅く結んでくださります。舟には生まれたばかりの教会の交わりが示されています。
 

わたしたちはこれまでコロナ禍という激しい風のなかで教会の目指す岸辺をしばしば見失いかけました。しかしそのたびに主なる神は教会の新しい道筋、暮らしの新しい道筋をお示しになりました。その道は細く狭いものでしたが、決して閉ざされはしませんでした。
 

礼拝後には「教会の活動を考える会・伝道委員会」が設けられ、11名が出席しました。朝焼けに映える湖の彼方には、新たな岸辺が待っています。

今週には「灰の水曜日」があり、教会の暦は受難節を迎えます。キリストの苦しみはわたしたちの苦しみを癒やすに余りあるものでした。十字架の彼方に映るいのちの復活の光を待ち望みながら、この季節を過ごしたく願います。みなさまにキリストの祝福がますます豊かに臨みますように祈ります。

2025年2月23日日曜日

2025年3月2日(日) 礼拝 予定

     ―降誕節第10主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「わたしたちのめざす岸辺」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』14章22~36節
(新共同訳 新約28頁)

讃美= 21-529(333).
461.21-88(Ⅱ255).


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

降誕節第9主日礼拝を献げることができました

おかげさまで降誕節第9主日礼拝を献げることができました。梅の花は満開ですが、他方でまたもや寒波の訪れを聞く朝でした。
 

そのような朝、教会玄関の脇にフクロウの骸がうずくまるように横たわっていました。泉北ニュータウンは自然豊かだとは聞きますがさすがにどのような経緯でそうなったのか知る由はありません。

人間の生活領域が里山や自然林を侵食した結果そのようになったのか、それとも流行りの「いきものカフェ」から自由を求めて羽ばたいた結果だったのかは定かではありません。動かなくなったミネルヴァにも似た姿を前に悲しみがふと胸をよぎりました。


過ぐる週はいのちの重さと神の奇しきわざを幾度も思い起こさずにはおれませんでした。教会に連なる交わりには日常を突き破るかのようにいのちの問いかけを授かった方々もおられました。

しかし神はそのように助けを呼び求めて叫ぶ声を決して聞き逃されません。天にいのちを見送る悲しみに涙し、世に救われたいのちに涙した過ぎにし週でしたが、そのようなわたしたちを圧倒する神の祝福に背中を押されて、新しい週、新たな月を迎えたく存じます。みなさまの一週間に、イエス・キリストのますます豊かな祝福を祈ります。