2024年4月21日日曜日

2024年4月28日(日) 礼拝 予定

        ー復活節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「イエスはあなたを招いています」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 15 章 18~26 節
(新約聖書  199  頁).

讃美=  301,512,21-29.

説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

復活節第4主日礼拝を献げることができました

  おかげさまで復活節第4主日礼拝を献げることができました。ありがとうございました。
  

  礼拝では『ヨハネによる福音書』にある復活後のイエス・キリストと弟子ペトロとの対話の中で三度繰り返される「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛するか」との問いかけの際に用いられるギリシア語の「愛する」が二度までは神の愛を示す「アガパオー」、三度目めが人の愛を示す「フィレオー」であるのに対してペトロの対応が終始一貫し「フィレオー」となっている特徴を指して、「イエスと弟子のちぐはぐな対話」とは見なしませんでした。むしろ『ヨハネによる福音書』の基調である「神は御子を賜るほどにこの世を愛してくださった」の具体的な展開として受けとめ、破れに満ちた弟子を神の愛がつつんでいるとの理解に立ちました。

  実際に世の中にはさまざまな破れがあり、その破れの中で今なお多くの人々が苦しみに置かれています。泉北ニュータウンからさほど遠くない大阪市西成区あいりん地区再開発計画でもある「西成特区構想」の中で貧困ビジネスの闇を明らかにしようとした矢島祥子内科医は34歳の若さでその闇に飲まれ落命したと言われています。しかし矢島医師は日本基督教団高崎南教会の教会員でもあったことを考えますと、自らのいのちと引き換えに世の闇に光を照らそうとされた方としても映ります。

  もちろん矢島医師とてそのような残酷な最期を遂げようとは自ら望んではいなかったことでしょう。しかし矢島医師が目を注ぎ続けたのは路上に横たわるホームレスの方々のみならず「なぜそうならなくてはならないのか」という社会構造でもあったのは確かです。
 

  わたしたちはさまざまな愛憎の中で時を過ごしています。ただその気持ちが個人に属するとともに交わりの課題として知られた時に、わたしたちの破れや欠けは新しい伸び代としての輝きを放ち始めるように思います。

  ひと握りのおむすびやひとかけの毛布が紡ぐ路上に暮らさざるを得ない方々とのつながりに神の愛が示されるならば、わたしたちの身近な方々とのつながりにもその糸がつながれているように思います。招きの糸あればこそ、わたしたちはキリストを通して多様な交わりを育みうると感じた礼拝でした。礼拝後には教会学校春の集いが行われました。雨天の中にきらめく麦の穂が新たな時の訪れを告げています。みなさまの新しい一週間に主なる神の祝福を祈ります。

2024年4月14日日曜日

2024年4月21日(日) 礼拝 予定

        ー復活節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「愛を呼びかける招きに応えて」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 21 章 15~19 節
(新約聖書  211 頁).

讃美=  21-505,300,21-29.


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復活節第3主日礼拝を献げることができました

おかげさまで復活節第3主日礼拝を献げることができました。ありがとうございます。
 

メッセージでは『ヨハネによる福音書』では他の福音書とはガリラヤ湖と記される湖名が「ティベリアス湖」と変更されている点に注目し、湖で漁る漁師の記事の配置がキリストの復活後にある点を踏まえました。その上で人の子イエスは迫害下の弟子の逃避行をも祝福していたのではないかとの理解をともにしました。「逃げる」ありかたを否定しないキリストは必ず「逃れの場」をユダヤ人以外の民にも保証してくださり、その交わりのひとつが教会だとの暫定的結論に達しました。そういえば『旧約聖書』『ヨシュア記』にも「逃れの町」の規定がありました。自分を過分に追いつめない生き方のヒントが『聖書』にはあると確信します。
 

礼拝後には泉北ニュータウン教会の定期総会を開催しました。2023年度の報告等が質疑とともに行われ、教会員のご理解とともに議事はスムーズに進行しました。コロナ期前後に礼拝のあり方を試行錯誤し続けたとの労により牧師には教会員からあたたかな拍手が向けられ、深い感動とともに「赴任九年目にしてようやくこの教会の牧師になれたのかなぁ」との感慨を覚えました。涙もののありがたさです。
 

とはいえ、まだまだ器の未熟な牧師であるには変わらず、「未熟さ」を「伸びしろ」として受けとめ直し、新たなチャレンジの節目と致したく存じます。これは牧師個人に限らず、泉北ニュータウン教会そのものの節目であるかもしれません。新しいステージを「神の平和の完成」への熱望とともに受けとめたく存じます。ご理解に篤く感謝申しあげます。

みなさまの新しい一週間に主なる神のあふれる祝福が臨みますよう祈ります。

2024年4月7日日曜日

2024年4月14日(日) 礼拝 予定

       ー復活節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「さあ、来て朝の食事をしなさい」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 21 章 4~14 節
(新約聖書  211 頁).

讃美=  298,21-411,21-29.


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復活節第2主日礼拝を献げることができました

おかげさまで春爛漫の風につつまれるなか、復活節第2主日礼拝を献げることができました。本日は礼拝の中で中学生進級祝福式、新年度役員任職式、教会学校教師任職式を執り行いました。礼拝後には久しぶりに飲食をともなく交わりの会を行い、教会の雰囲気がより温かみを増しました。お祈りを賜った方々には深く感謝申しあげます。 

  次の日曜日には定期総会を控え、教会の新年度のあゆみが本格的に始まります。会衆席におられたはずの渡辺敏雄牧師が天に召されご不在なのは寂しい限りですが、渡辺牧師は「黄昏は別の国の日の出」と仰せでした。さればわたしたちは復活のキリストの光につつまれているわけですから、寂しさに甘んじるわけにもまいりません。
 

  さて本日は五人の中学生の進学をお祝いしました。思い返せば中学生のころから老いるまでの人格が形成されます。神の祝福を授かった若者に、ますますの祝福と学び舎での友情が育まれるよう祈ります。それはかけがえのない一生の宝物となることでしょう。
  
  桜の園と春の風にますますの追い風を授かり、みなさまに主なる神のあふれる祝福を祈ります。別れと出会い一つひとつにキリストがともにおられますように❗️
 

2024年3月31日日曜日

2024年4月7日(日) 礼拝 予定

       ー復活節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「イエスの傷とあなたの傷を重ねて」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 20 章 24~31 節
(新約聖書  210 頁).

讃美=  21-504,247,21-29.


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復活節第1主日礼拝を献げられました

 主イエス・キリストのご復活おめでとうございます。おかげさまで復活節第1主日礼拝を献げられました。礼拝では イースター朗読劇とこひつじこども園・放課後等デイサービス こひつじ職員の就任・任職式と聖餐式を執り行いました。まさしく教会の新しいあゆみを刻んだこととなります。
 

 新たな年度を前にして、これまでわたしたちに課せられた試練としての新型コロナ禍からの立ちあがりがあります。しかしこれも先の敗戦時に教会がおかれた状況に較べれば大したことはないものだと心得ています。

 牧師主導型の教会から教会員が各々の役割に責任感を抱きつつ教会組織を構成する体制へと変容しつつあります。実はこれこそ先に天に召された渡辺敏雄牧師の望まれた教会の姿であると確信しています。
 

 明日4月1日(月)は こひつじこども園の進級・入園式です。職員就任・任職式に招かれたこども園職員はそのための備えに礼拝後とりくまれていました。まさしく一球入魂の思いです。

 復活の主なるイエス・キリストの愛を証しするための新しいあゆみが新年度も始まります。みなさま覚えてお祈りください。

 みなさまの新しい一週間のあゆみに復活の主イエス・キリストはともにおられます。その平安のうちに新たな年度も始まりますように祈ります。

2024年3月26日火曜日

2024年3月31日(日) 礼拝 予定

      ー復活節第1主日礼拝ー

 ―イースター礼拝―

時間:10時30分~



説教=「復活のイエス・キリストと出会う」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 20章11~17節
(新約聖書  192頁).

讃美=  146 (1.3.4), 265 (1.3),讃美ファイル3(1.2), 21-29.


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2024年3月24日日曜日

受難節第6主日礼拝、棕櫚の主日礼拝を献げることができました。

  おかげさまで受難節第6主日礼拝、棕櫚の主日礼拝を献げることができました。人の子イエスが小さなロバに乗ってエルサレムに入城した様子を城壁の外の村々に住む人々がメシアの訪れとして歓迎したとの福音書の記事を踏まえた礼拝です。歓呼の声で迎えられたイエス・キリストはやがて十字架での死にいたるあゆみをより鮮やかにいたします。このゆえに受難週の始まりとしても理解されます。
 

  ところで自らとしては全く過ちのないイエスを陥れようと画策した人々はその策に溺れその交わりの希薄さを暴露してしまいます。功利主義的な交わりや利害のみをともにする交わりはキリストが示した神の信実ゆえに解体されていきます。いわばその素性を明るみに出されてしまうのです。
  

  顧みて新年度を前にした今、わたしたちの交わりの根が深く問われています。本来責任を担うべき立場の者が部下の者に責任を転嫁して保身に汲々とするさまや、現場で汗を流す人々を「駒」呼ばわりして斬り捨てるという話がメディアでは後を断ちません。マスメディアに踊らされる気は毛頭ありませんが、わたしたちはキリストが味わった苦難をともにして、悲しみも喜びもともにする交わりを時にかなった仕方で広めたく存じます。キリストに従う道にはそのような醍醐味もありかと考えます。
  

  雨の降る日曜日でしたが春は確実に近づいています。新しい一週間、主なる神がみなさまとともにおられますように祈ります。神とみなさまのお祈りに感謝して。

2024年3月17日日曜日

2024年3月24日(日) 礼拝 予定

     ー受難節第6主日礼拝ー

 ―棕櫚の主日礼拝―

時間:10時30分~



説教=「濡れ衣を破る復活の兆し」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』18章 33 ~ 40 節
(新約聖書  192頁).

讃美=  讃美ファイル 5,21-298,271B,21-27.


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受難節第5主日礼拝を執り行うことができました

  おかげさまで受難節第5主日礼拝を執り行うことができました。昨日には こひつじこども園の卒園式を挙行し30名の卒園生が巣立っていきました。泉北ニュータウン教会とは「車の両輪」として位置つけられたこども園の卒園式にむけて職員は祈りのなか思いと力を尽くして励みました。おつかれが存分に癒されますようにと祈ります。
 

  また本日礼拝後には臨時総会が開会され次年度の役員3名が選出されました。ポストコロナのなかで「無痛社会」への求めが多くなる時代において「キリストの苦難と死、そして復活」の出来事に立つ教会のあゆみが問われます。キリストを頭と仰ぐ教会にふさわしいわざに励むことができますようお祈りください。
  

  次回日曜日からは受難週が始まります。キリストの復活に示されるようにいのちの輝きが死にとどまらないとのメッセージを、現代だからこそみなさまとともにしていきたく存じます。純白のハンカチを結んだようなハクモクレンの花に、いのちの清らかさを重ねつつともにあゆみましょう。みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますように祈ります。
  






2024年3月10日日曜日

2024年3月17日(日) 礼拝 予定

     ー受難節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「一粒の麦が地に落ちるとき」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』12章20~26節
(新約聖書  192頁).

讃美=  243,21-466,21-27.


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受難節第4主日礼拝を献げることができました

 おかげさまで受難節第4主日礼拝を献げることができました。啓蟄を過ぎた候の朝 若いウグイスのたどたどしい歌声を聞きながらの礼拝となりました。
 

  本日は2時間で10万人が実に残虐かつ不本意な仕方で天に召された、民間人の大虐殺とも言うべき東京大空襲から79年、そして明日の東日本大震災13年を覚えて、日毎の祈りに加えてさらに言葉を刻みました。
 

  東京大空襲の作戦を立案・指揮したカーチス・ルメイという軍人はB29から機銃を取り外し、積めるだけの焼夷弾を東京の下町に降らせるという恐るべき「効率的」な軍人でしたが、戦後日本政府から最高位の勲章を受位されてもいます。ナチスのアイヒマンにしても米軍のルメイにしても人間の持つ残虐性を効率化し得た人でしたが、片やエルサレムの裁判で処刑され、片や東京で叙勲されました。
 

 『ヨハネによる福音書』の「ナルドの香油」の箇所はそのような人間の残虐さもまた善意の名のもとに行われうること、そしてイエス・キリストの前では、譬え無駄であるとされたとしてもすべてが祝福されるという「効率化」とは正反対の極みに立つというメッセージをも放っています。マリアがイエスにそそいだナルドの香油の香りは、確かに目利きのイスカリオテのユダにはとてつもない無駄に思えたことでしょう。しかしイエスはその香りにつつまれながら「わたしの葬りの日のためにそれをとっておいてくれた」と語ります。本来ならば十字架刑に処せられた死刑囚はそのまま放置されて鳥獣の貪るところとなりますが、ナルドの香油はイエス・キリストの生涯が死に留まらないと示していたのです。

 本来ならどこか不完全さを抱えている人間の考える「効率性」や「完全性」はどこかに破れを抱えています。その破れは「想定外」との言葉では決して正当化されません。この厳粛な事実を忘れたときに、人はあらゆる罪悪を「神なき善意」のもと実に効率的にやってのけてしまいます。

 教会は新年度の備えにあたり、人間の「非効率性」「無駄なところ」こそイエス・キリストに祝福されているとの前提に立ちながら、新たなあゆみを興していきたいと強く願うものです。コロナ禍を経て弱くもされた教会の交わりに、神の備え給う奇跡の麦の種が一粒隠されているとしたら、わたしたちはいかに受けとめるべきでしょうか。いのちとはわたしたちの両手からこぼれて余りあるほどの恵みに満ちあふれています。みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますよう祈ります。

2024年3月3日日曜日

2024年3月10日(日) 礼拝 予定

     ー受難節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「非効率の中に潜むいのちの希望の光」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』12章1~8節
(新約聖書  191頁).

讃美=  511,21-309,21-27.


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受難節第3主日礼拝を献げることができました

 おかげさまで受難節第3主日礼拝を献げることができました。桃の節句の朝 気温の変化は激しいながらも春の陽を浴びての礼拝となりました。
 

  今朝の『聖書』を読み解く上で異彩を放つのは『ヨハネによる福音書』でイエスが一二弟子の一人を「悪魔」だと宣言するところ。福音書の書き手集団は、悪魔扱いされた弟子をイスカリオテのユダであると書き記します。

 ただし細かくこのユダの姿を掘り下げてみますと、ステレオタイプのユダのイメージが浅薄であると気付かされます。人の子イエスの身に危機が迫るに従って弟子の多くは逃げてしまいます。これはペトロも同じなのですが、イスカリオテのユダは、人の子イエスの無罪と裁判の不当性を訴えます。ユダの生涯が自死という仕方で終わったとしても、『聖書』にその死に方を咎め立てた箇所はありません。『聖書』は生き方を問うのであり、自死を罪あるものと定めたのはむしろ遙かのちに世俗権力と結託した教会が作り出した教理に過ぎません。

「裏切り」と訳されるギリシア語「パラドゥーナイ」は本当のところ「引渡す、委ねる」に意味が近いと考えられます。ユダは祭司長たちにイエスを引渡し、祭司長たちはローマ帝国の総督ピラトに、そしてピラトは十字架にイエスを引渡すにいたります。その意味では瑣末ながら最初にイエスを引渡したユダに決定的な責任がありますが、福音書の書き手はその責任を「一二人の弟子」を代表する責任として描くのです。

  イスカリオテのユダが神に救われたかどうかについてはわたしたちは神の国の訪れを前にして沈黙しなくてはなりません。しかしこの沈黙の中で祈りが生まれます。イスカリオテのユダもまた神の救いの計画の中に織り込まれていたのです。
 

 わたしたちは各々勝手なラベリングでもって『聖書』のことばを縛ろうとしますが、そのような頑ななわたしたちをイエス・キリストは自らに課せられた十字架刑と死、そして埋葬と復活によって打ち砕かれます。わたしたちもまたさまざまな破れと不確かさを抱えていますが、主なる神の愛はわたしたちの過ちによって破られはしません。イスカリオテのユダのような弱さを抱えながらも、わたしたちは主なる神に備えられた神の道をイエス・キリストとともに旅しているのです。みなさまの一週間を主なる神の愛がつつんでくださりますよう願って止みません。

2024年2月25日日曜日

2024年3月3日(日) 礼拝 予定

    ー受難節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「一二人の弟子の一人であるユダ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6章60~71節
(新約聖書  177頁).

讃美=  258,21-575,21-27.


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受難節第2主日礼拝を献げることができました

 おかげさまで受難節第2主日礼拝を献げることができました。春の訪れを告げる曇天と雨のなかイエス・キリストの苦難の道を思い出しながらの礼拝となりました。
 

 本日の礼拝を以て2月の礼拝を全ういたします。いよいよ来月から本格的に次年度の備えが始まります。
 

 慌ただしさのなか目先の事柄に幻惑されるわたしたちですが、そのようななかでイエス・キリストはわたしたちの目を開けさせ、肝腎要な事柄を見極めさせてくださいます。
 

 紅梅も散りましたが、その代わりに主なる神は色彩さまざまな花をいたるところに咲かせてくださいます。
 

 新しく始まる三月。冬から春へと生命のリズムが大きく変わります。みなさまにはお身体にくれぐれもお気をつけてください。わたしたちの苦難をともにしてくださる主イエス・キリストを仰ぎながらともにあゆみましょう。

2024年2月18日日曜日

2024年2月25日(日) 礼拝 予定

    ー受難節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「もっと素直になれる生き方」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』9章35~41節
(新約聖書  186頁).

讃美=  90,21-463,21-29.


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受難節第1主日礼拝を献げることができました

 おかげさまで受難節第1主日礼拝を献げることができました。聖日が天候に恵まれるなか復活にいたるまでのイエス・キリストの受難のあゆみと葬りという苦難の道を思い出しながらの礼拝となります。
 

 殊に冬から春へと季節が変わるだけにとどまらず、年度末から年度始めへとわたしたちの暮らしのステージが大きく変わる候でもあります。施設を利用されたり入院加療中であったり、そのような方々とともに暮らす方々には心身ともに堪える候でもあります。


 泉北ニュータウン教会ではこの季節には週ごとにろうそくを毎週一本ずつ消しながら、視覚的にも人の子イエスのいのちが受難へと進められていくさまをこころに刻みます。キリストの苦難によってわたしたちの苦しみは人の子イエスと分かちあわれ、希望の光へと関係つけられます。
 

 新しい一週間がみなさまにとってキリストの愛の香り豊かなものとなりますように祈ります。世には感染症の報せが絶えません。ご多忙とは存じますがどうかみなさまの心身が豊かな祝福のもと支えられますように祈ります。

2024年2月12日月曜日

2024年2月18日(日) 礼拝 予定

    ー受難節第1主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「分かちあう生き方を授かったイエス」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』4 章 1 ~ 11 節
(新約聖書  4頁).

讃美=  519,21-306,21-29.


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2024年2月11日日曜日

降誕節第7主日礼拝を執り行えました

  おかげさまで降誕節第7主日礼拝を執り行えました。立春も過ぎ、紅白の梅が先週にも増して花咲く候となりました。
  

 聖書の箇所は『ヨハネによる福音書』6章にある「五つのパンと二匹の魚で五千人が満たされた」物語でした。当該福音書で際立つのはイエスが人々を座らせた場所には「草がたくさん生えていた」とあるところです。福音書の書き手が「草」と記すとき、それは『旧約聖書』『詩編』23編との関わりを際立たせるためだと云われます。確かに荒地を越えてオアシスや牧草地にたどり着いたときには、羊たちは存分に草を喰み、いのちの洗濯をしたことでしょう。

 さらにこの草が「青草」として解釈されるのであれば『創世記』2章の「天地創造物語」にある「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」との言葉に重ねることもできます。すべてのいきものは青草を食べていたとの箇所は『旧約聖書』でも殺生を遠ざけるあり方こそ命のあるべき様子だとの理解に立っているとも言える実に興味深い箇所です。
 

 翻ってわたしたちの日常を顧みれば殺生どころか人間仲間の虐殺すら厭わない殺意と猜疑に世が覆われているとの報せばかり耳にします。茫然とするばかりのわたしたちにイエス・キリストはさまざまな譬えを用いて神の祝福の勝利を伝え、よき羊飼いに導かれた羊たちのような健やかさを備えてくれます。これもまた「神の平和」だといえます。

 それだけでなくその時代には人の数に入らなかったはずの人々を喜びで満たし、隣人に仕える道を備えました。

 今週の水曜日より教会は受難節を迎えます。キリストの味わった苦難のあゆみを思い出して祈る季節です。十字架での死と埋葬という現実を貫いて輝くいのちの希望がわたしたちとともにあります。病にあってもキリストにあって満たされる生きかたがわたしたちには備えられています。みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますよう祈ります。


2024年2月4日日曜日

2024年2月11日(日) 礼拝 予定

    ー降誕節第7主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「神の力はあなたを元気にする」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 6 章 5~15 節
(新約聖書  174頁).

讃美= 191,Ⅱ-41,21-29.


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降誕節第6主日礼拝をお献げできました

 おかげさまで降誕節第6主日礼拝をお献げできました。2月始めの礼拝は、教会の今年度を振り返る礼拝でもあり、来年度に向かう希望を分かちあう礼拝として献げます。みなさまのお祈りに衷心より感謝申しあげます。
 

 礼拝後には定例役員会を行い、次年度へ向けての備えを着々と整えることができました。
 

 聖書の箇所は『ヨハネによる福音書』で人の子イエスがベトザタの池に38年間も放置されてきた病人を癒す場面でした。38年間も寝たきりのまま池の淵に放置されてきた病人の唯一の救いは人の子イエスから「良くなりたいか」と問われた声に反応したところにあります。答えの内容は放置されている状況への嘆きでしたが、それでもイエス・キリストは聞き漏らされず「床を担いで歩きなさい」との奇跡を起こされました。
 

 イエス・キリストは38年間「そこにはいない者」として扱われた病人をいのちの光でつつまれました。病人にはイエスの呼びかけに背を向けるほうが楽だったかしれません。しかし病人はイエスとの対話の道に導かれたのです。

 わたしたちも絶えずキリストから「良くなりたいか」と語りかけられています。絶望の淵にあったとしてもその声に耳を澄ます者でありたいと願います。キリストの呼び声に従い、新しい一週間を始めましょう。インマヌエル アーメン。

2024年1月29日月曜日

2024年2月4日(日) 礼拝 予定

    ー降誕節第6主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「主イエスはあなたの逃れの場」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 5章1~14節
(新約聖書  171頁).

讃美= 122,21-508,21-29.


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2024年1月28日日曜日

降誕節第5主日礼拝をお献げできました

  おかげさまで降誕節第5主日礼拝をお献げできました。新来会者を3名お迎えした礼拝でもあり、ともに讃美するよろこびに包まれた礼拝でした。みなさまのお祈りに衷心より感謝申しあげます。
 

 今朝がたご高齢の教会員の訃報を聞き、主なる神のもとに逝去された教会員の永久の平安とともに、世にあるご遺族の癒しと支えを祈りました。  

 聖書の箇所は『ヨハネによる福音書』で人の子イエスが「わたしはある」と語るところでした。当該福音書は文体が美しいギリシア語でも知られますが、その時代の霊肉二元論や霊魂不滅論に対してキリストに示された救いを今一度『旧約聖書』から確かめようとする意図も感じさせる文が続きます。 

 わたしたちの救いとは肉体を滅ぶべき欲望の源だとする理解からも魂のみが不滅であるとの立場からも遠いところにあります。どれほどの不安や孤独に苛まれても「心配するな、わたしはここにいるよ」との名をもつ神の慈しみと愛に気づいてこそ訪れます。この神の慈しみに敷かれた道を歩んだイエス・キリストを見つめながら、新しい一週間を始めましょう。インマヌエル アーメン。