2024年3月31日日曜日

2024年4月7日(日) 礼拝 予定

       ー復活節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「イエスの傷とあなたの傷を重ねて」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 20 章 24~31 節
(新約聖書  210 頁).

讃美=  21-504,247,21-29.


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

復活節第1主日礼拝を献げられました

 主イエス・キリストのご復活おめでとうございます。おかげさまで復活節第1主日礼拝を献げられました。礼拝では イースター朗読劇とこひつじこども園・放課後等デイサービス こひつじ職員の就任・任職式と聖餐式を執り行いました。まさしく教会の新しいあゆみを刻んだこととなります。
 

 新たな年度を前にして、これまでわたしたちに課せられた試練としての新型コロナ禍からの立ちあがりがあります。しかしこれも先の敗戦時に教会がおかれた状況に較べれば大したことはないものだと心得ています。

 牧師主導型の教会から教会員が各々の役割に責任感を抱きつつ教会組織を構成する体制へと変容しつつあります。実はこれこそ先に天に召された渡辺敏雄牧師の望まれた教会の姿であると確信しています。
 

 明日4月1日(月)は こひつじこども園の進級・入園式です。職員就任・任職式に招かれたこども園職員はそのための備えに礼拝後とりくまれていました。まさしく一球入魂の思いです。

 復活の主なるイエス・キリストの愛を証しするための新しいあゆみが新年度も始まります。みなさま覚えてお祈りください。

 みなさまの新しい一週間のあゆみに復活の主イエス・キリストはともにおられます。その平安のうちに新たな年度も始まりますように祈ります。

2024年3月26日火曜日

2024年3月31日(日) 礼拝 予定

      ー復活節第1主日礼拝ー

 ―イースター礼拝―

時間:10時30分~



説教=「復活のイエス・キリストと出会う」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 20章11~17節
(新約聖書  192頁).

讃美=  146 (1.3.4), 265 (1.3),讃美ファイル3(1.2), 21-29.


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

2024年3月24日日曜日

受難節第6主日礼拝、棕櫚の主日礼拝を献げることができました。

  おかげさまで受難節第6主日礼拝、棕櫚の主日礼拝を献げることができました。人の子イエスが小さなロバに乗ってエルサレムに入城した様子を城壁の外の村々に住む人々がメシアの訪れとして歓迎したとの福音書の記事を踏まえた礼拝です。歓呼の声で迎えられたイエス・キリストはやがて十字架での死にいたるあゆみをより鮮やかにいたします。このゆえに受難週の始まりとしても理解されます。
 

  ところで自らとしては全く過ちのないイエスを陥れようと画策した人々はその策に溺れその交わりの希薄さを暴露してしまいます。功利主義的な交わりや利害のみをともにする交わりはキリストが示した神の信実ゆえに解体されていきます。いわばその素性を明るみに出されてしまうのです。
  

  顧みて新年度を前にした今、わたしたちの交わりの根が深く問われています。本来責任を担うべき立場の者が部下の者に責任を転嫁して保身に汲々とするさまや、現場で汗を流す人々を「駒」呼ばわりして斬り捨てるという話がメディアでは後を断ちません。マスメディアに踊らされる気は毛頭ありませんが、わたしたちはキリストが味わった苦難をともにして、悲しみも喜びもともにする交わりを時にかなった仕方で広めたく存じます。キリストに従う道にはそのような醍醐味もありかと考えます。
  

  雨の降る日曜日でしたが春は確実に近づいています。新しい一週間、主なる神がみなさまとともにおられますように祈ります。神とみなさまのお祈りに感謝して。

2024年3月17日日曜日

2024年3月24日(日) 礼拝 予定

     ー受難節第6主日礼拝ー

 ―棕櫚の主日礼拝―

時間:10時30分~



説教=「濡れ衣を破る復活の兆し」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』18章 33 ~ 40 節
(新約聖書  192頁).

讃美=  讃美ファイル 5,21-298,271B,21-27.


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

受難節第5主日礼拝を執り行うことができました

  おかげさまで受難節第5主日礼拝を執り行うことができました。昨日には こひつじこども園の卒園式を挙行し30名の卒園生が巣立っていきました。泉北ニュータウン教会とは「車の両輪」として位置つけられたこども園の卒園式にむけて職員は祈りのなか思いと力を尽くして励みました。おつかれが存分に癒されますようにと祈ります。
 

  また本日礼拝後には臨時総会が開会され次年度の役員3名が選出されました。ポストコロナのなかで「無痛社会」への求めが多くなる時代において「キリストの苦難と死、そして復活」の出来事に立つ教会のあゆみが問われます。キリストを頭と仰ぐ教会にふさわしいわざに励むことができますようお祈りください。
  

  次回日曜日からは受難週が始まります。キリストの復活に示されるようにいのちの輝きが死にとどまらないとのメッセージを、現代だからこそみなさまとともにしていきたく存じます。純白のハンカチを結んだようなハクモクレンの花に、いのちの清らかさを重ねつつともにあゆみましょう。みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますように祈ります。
  






2024年3月10日日曜日

2024年3月17日(日) 礼拝 予定

     ー受難節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「一粒の麦が地に落ちるとき」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』12章20~26節
(新約聖書  192頁).

讃美=  243,21-466,21-27.


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

受難節第4主日礼拝を献げることができました

 おかげさまで受難節第4主日礼拝を献げることができました。啓蟄を過ぎた候の朝 若いウグイスのたどたどしい歌声を聞きながらの礼拝となりました。
 

  本日は2時間で10万人が実に残虐かつ不本意な仕方で天に召された、民間人の大虐殺とも言うべき東京大空襲から79年、そして明日の東日本大震災13年を覚えて、日毎の祈りに加えてさらに言葉を刻みました。
 

  東京大空襲の作戦を立案・指揮したカーチス・ルメイという軍人はB29から機銃を取り外し、積めるだけの焼夷弾を東京の下町に降らせるという恐るべき「効率的」な軍人でしたが、戦後日本政府から最高位の勲章を受位されてもいます。ナチスのアイヒマンにしても米軍のルメイにしても人間の持つ残虐性を効率化し得た人でしたが、片やエルサレムの裁判で処刑され、片や東京で叙勲されました。
 

 『ヨハネによる福音書』の「ナルドの香油」の箇所はそのような人間の残虐さもまた善意の名のもとに行われうること、そしてイエス・キリストの前では、譬え無駄であるとされたとしてもすべてが祝福されるという「効率化」とは正反対の極みに立つというメッセージをも放っています。マリアがイエスにそそいだナルドの香油の香りは、確かに目利きのイスカリオテのユダにはとてつもない無駄に思えたことでしょう。しかしイエスはその香りにつつまれながら「わたしの葬りの日のためにそれをとっておいてくれた」と語ります。本来ならば十字架刑に処せられた死刑囚はそのまま放置されて鳥獣の貪るところとなりますが、ナルドの香油はイエス・キリストの生涯が死に留まらないと示していたのです。

 本来ならどこか不完全さを抱えている人間の考える「効率性」や「完全性」はどこかに破れを抱えています。その破れは「想定外」との言葉では決して正当化されません。この厳粛な事実を忘れたときに、人はあらゆる罪悪を「神なき善意」のもと実に効率的にやってのけてしまいます。

 教会は新年度の備えにあたり、人間の「非効率性」「無駄なところ」こそイエス・キリストに祝福されているとの前提に立ちながら、新たなあゆみを興していきたいと強く願うものです。コロナ禍を経て弱くもされた教会の交わりに、神の備え給う奇跡の麦の種が一粒隠されているとしたら、わたしたちはいかに受けとめるべきでしょうか。いのちとはわたしたちの両手からこぼれて余りあるほどの恵みに満ちあふれています。みなさまの新しい一週間に主なる神がともにおられますよう祈ります。

2024年3月3日日曜日

2024年3月10日(日) 礼拝 予定

     ー受難節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「非効率の中に潜むいのちの希望の光」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』12章1~8節
(新約聖書  191頁).

讃美=  511,21-309,21-27.


説教要旨・動画、ライブ中継については、
教会ホームーページの
「今週の礼拝説教」のコーナーに、
礼拝前日の夜までに掲載します。

なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、
お願い致します。

受難節第3主日礼拝を献げることができました

 おかげさまで受難節第3主日礼拝を献げることができました。桃の節句の朝 気温の変化は激しいながらも春の陽を浴びての礼拝となりました。
 

  今朝の『聖書』を読み解く上で異彩を放つのは『ヨハネによる福音書』でイエスが一二弟子の一人を「悪魔」だと宣言するところ。福音書の書き手集団は、悪魔扱いされた弟子をイスカリオテのユダであると書き記します。

 ただし細かくこのユダの姿を掘り下げてみますと、ステレオタイプのユダのイメージが浅薄であると気付かされます。人の子イエスの身に危機が迫るに従って弟子の多くは逃げてしまいます。これはペトロも同じなのですが、イスカリオテのユダは、人の子イエスの無罪と裁判の不当性を訴えます。ユダの生涯が自死という仕方で終わったとしても、『聖書』にその死に方を咎め立てた箇所はありません。『聖書』は生き方を問うのであり、自死を罪あるものと定めたのはむしろ遙かのちに世俗権力と結託した教会が作り出した教理に過ぎません。

「裏切り」と訳されるギリシア語「パラドゥーナイ」は本当のところ「引渡す、委ねる」に意味が近いと考えられます。ユダは祭司長たちにイエスを引渡し、祭司長たちはローマ帝国の総督ピラトに、そしてピラトは十字架にイエスを引渡すにいたります。その意味では瑣末ながら最初にイエスを引渡したユダに決定的な責任がありますが、福音書の書き手はその責任を「一二人の弟子」を代表する責任として描くのです。

  イスカリオテのユダが神に救われたかどうかについてはわたしたちは神の国の訪れを前にして沈黙しなくてはなりません。しかしこの沈黙の中で祈りが生まれます。イスカリオテのユダもまた神の救いの計画の中に織り込まれていたのです。
 

 わたしたちは各々勝手なラベリングでもって『聖書』のことばを縛ろうとしますが、そのような頑ななわたしたちをイエス・キリストは自らに課せられた十字架刑と死、そして埋葬と復活によって打ち砕かれます。わたしたちもまたさまざまな破れと不確かさを抱えていますが、主なる神の愛はわたしたちの過ちによって破られはしません。イスカリオテのユダのような弱さを抱えながらも、わたしたちは主なる神に備えられた神の道をイエス・キリストとともに旅しているのです。みなさまの一週間を主なる神の愛がつつんでくださりますよう願って止みません。