おかげさまで降誕節第2主日礼拝を献げることができました。2026年を迎えて初めての聖日礼拝。聖書箇所は『ルカによる福音書』2章41〜52節の少年イエスの物語。12歳を迎えた少年イエスが両親が毎年行っていた過越の祭行脚から離れ エルサレムの神殿で律法学者たちと問答を繰り広げるという話。母マリアと父ヨセフはいつのまにか帰路から離れたイエスを探し求めて混乱し 三日目に見つけた少年イエスに「なぜこんなことをしてくれたのか」と叱りつけますが 少年イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えます。この言葉に「両親はイエスの言葉の意味が分からなかった」と福音書の書き手は記します。
この箇所で明らかなのは人の子イエスの言葉は両親にも理解できなかった、というところです。ローマ・カトリック教会や東方オーソドックス教会で権威づけられた「聖家族」のイメージよりも、むしろ次世代の言動を前に戸惑う両親の姿がありありと目に浮かびます。
わたしたちには見当もつかない世界を 次世代の若者たちは軽々と乗り越えていきますが そのような若者たちをわたしたちは「わたしたちの若いころは」とおのれの経験則で束縛し 神から託された自由な言動を縛りあげがちです。しかし人の子イエスは 神の言葉のもつ自由をその少年の時代から体感していました。なぜならばイエス自らが神の言葉として世に遣わされた救い主だったからです。
時にイエス・キリストはメシアとして崇められ また時にイエス・キリストは「気が変になっている」と噂で貶められました。しかし他の福音書であればともかく『ルカによる福音書』では両親が徹底して息子を信頼していた様子を描いています。
こどもが両親の理解を超えた言動をとるときに親に求められるのは徹底してわが子を信頼するという態度です。ただそれは神への信頼なしには困難な道です。
わが子が親の想定した路線から外れたときにこそ わたしたちにはこどもへの不平不信ではなくイエス・キリストに根ざした深い信頼がぜひとも求められます。この態度は教会員・牧師家族を問わず求められるあり方です。
2026年を迎えて初めての聖日礼拝は 何よりも次世代が神に示された道をあゆむためにも欠かせませんでした。短期的な視野での願かけのようではなく 人生を全うしたときに「これでよかったのだ」と喜びに満ちあふれる生き方を次世代が辿れるように祈りを重ねたいと願います。
聖日礼拝の後には「教会の活動を考える会・伝道委員会」を行い 次年度の課題を含めて話し合いました。
パレスチナ、ベネズエラ、ウクライナ、インドシナで戦争に苦しめられている障がい児・者やこどもたち、ご高齢の方々を覚えて祈りを献げました。みなさまの新しい一週間・一年間に主なる神のますますの祝福がありますよう祈ります。


