2023年3月5日日曜日

受難節第2主日礼拝を献げることができました

みなさまの尊いお祈りのお陰で、受難節第2主日礼拝を献げることができました。明日からは啓蟄を迎え、大自然のいのちが一斉に芽吹く候です。教会では大自然のいのちのリズムからは外れた社会に生きる人の世の苦しみをイエス・キリストが担ってくださったことを週ごとに刻んでいく季節を迎えています。

本日は『旧約聖書』の『ヨナ書』に登場する預言者ヨナのあゆみと、『ルカによる福音書』の「悪霊の頭ベルゼブル論争」でのイエスの受け答えをメッセージとして分かちあいました。預言者ヨナはかつてイスラエルの民を滅ぼした民の暮らす都市ニネベへと、神の救いのメッセージを伝えるため遣わされます。これはヨナにはまったく不本意なことで、ニネベの王や民、すべての家畜が滅びを免れたと知ると希死念慮にとりつかれたかのように「生きているよりも死ぬほうがましだ」と繰り返し神に訴えます。しかし神はそのようなヨナを用いてニネベの民を滅びから救います。神の愛に属する赦しという特性を示しています。またヨナにしても散々死を口にしてはいるものの、悪霊にとりつかれた人物としては一切描かれません。

 『ルカによる福音書』の今朝の箇所では、イエスが口を利けない人から「悪霊」を追い払い、癒やした結果を見ていた人々の中に「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」との難癖をつける者が出てまいります。しかしイエスはそのような人々を排除しようとはせず「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と語ります。侮辱に対して怒りではなく神の愛の勝利を説くことで、イエスは相手を赦しているのです。憤りや悲しみすら言葉にはできなかった人が喜び、祝福を分かちあう姿勢。それは「悪霊の力較べ」とは関係のない事柄です。

赦しとは個人の課題として捉えれば内発的であるのは疑いなく、他者から強要される赦しは暴力に他なりません。しかし神がニネベを赦し、イエスが侮辱する者に神の国の訪れを語る以上、わたしたちもまた復讐や憤りとは別の土俵での隣人との向き合いが問われています。
 

三月は新年度への備えも含めて新たなライフステージを整える時でもあります。さまざまな不安や不条理の中に立ちながらも、神の愛なる赦しに背中を押されて、新しい道へと進みましょう。みなさまに主なる神がともにおられますように祈ります。