2022年11月20日日曜日

降誕前第5主日礼拝を献げることができました

 おかげさまで本日は降誕前第5主日礼拝を献げることができました。収穫感謝日礼拝として、日々の糧を授けてくださる神に感謝する一日ともなりました。
  

  「収穫」との言葉を『聖書』に聞く折に、わたしたちはさまざまな解き明かしに思いを馳せます。字義通りには、それはわたしたちの暮らしと直結する実りであり、現在ではわたしたちの暮らしを脅かしもする食糧の問題でもあります。経済先進国と開発途上国という括りから、国内での経済格差へと食の問題が移ろうなかで、あらためて収穫を分かち合うという富の再分配の問題が問われます。

 他方でこれまでの社会常識が悉く破壊されていく世にあって、神の恵みと愛に応えた人々を、実りとして理解する解釈もあります。この場合、実り一粒ひとつぶは、決して数値には還元されない豊かさを湛えるにいたります。
 

 本日の礼拝説教では、現在のキリスト教主義学校や社会福祉法人の源となったところの、和暦でいう明治元年から10年までの時代を俯瞰しながら、日本基督教団に定められた、十字架上でのキリストと死刑囚との対話を味わいました。主の祈りの文語訳が成立し普及する数年前まで梟首という残酷な刑罰が行われており、それまで世の中の正しさの尺度が戊辰戦争以来年毎に変わってしまうという異常事態を考えますと、キリスト教の伝道自体が決してきれいごとでは済まなかったことが分かります。十字架のキリストの姿は、昨日までの日本でよくあった日常でもありました。

 他方で道を求める人々がいたからこそ、その後に戦争ばかりが続く社会で福祉と平和を求める声がもたらされたのも確かです。誰ひとり飢えたり疫病に罹患したまま放置されたりしないためにも、教会は神の愛を証ししてきました。

 今の世とかつての世の姿には重なるところが多く、決して他人事だとは思えません。次週からはキリストの誕生を待ち望む待降節が始まります。キリストがそうであったように、わたしたちも分かち合いの思いを忘れずにクリスマスへとあゆんでまいりたく願います。みなさまの新しい一週間に神がともにおられますよう祈ります。